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3月, 2023の投稿を表示しています

「安値でも捨ててしまうよりは」?

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3/28 19:00-21:30 城内公民館 集会室3  前回からようやく具体的な創作をし始めました、あした帰った。 (いかにしたら)本番に間に合うのか、といった焦燥が多分にありますが、今回も粛々と/賑やかにやります。 個別のチームに分かれて創作をしたりしているので、総括して書くのがやや難しいですが、みんなやはり各々に自分の人生について、他人との関わりについて、この世界における立ち位置について、何らかの凝り、しこり、わだかまり、いずれにせよ何らかの凹凸を感じていて、それにつまずいたり、足を取られながらも進んだり、手触りを確認するためにその場にとどまったり、ものともせず乗り越えていたり、様々な態度をとっているのだろうと感じました。 そしてこの態度の違いが創作の起点になっている、というか。 その凹凸が当人に固有なものだと(厳密には固有なものでしかありえないはずですが)、共有することは難しく、どうしたら良いのかと呆然と立ち竦んでしまうこともありますが、ともに時間をすごしてきたわれわれですから、解決の糸口も共同的なしかたで複数出てくる、かもしれない。 互いに話しつつ、祈りつつ。 強力な演出家が解決策をドーンと示す集団もあるでしょう、その方がマジョリティでしょう、そして多くの場合その方が楽だし簡単でしょう、それでもじっくり悩み苦しむことを選択しています。 最後に見せてもらった「買取専門店」の一幕は大変面白かったなぁ。 今までは、記憶なり思い出なりを大事にする方向で考えていたのですが、一瞬で無下にされるという事態。 無論悪気はないし、「安値でも捨ててしまうよりは」というのも実際そうなんだけど、だからこそ切なさが際立つというか。 日中暖かい日も多くなってきましたね。でも朝晩は寒いことが多いですね。

幸せ、か(な)ぁ

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3/21 17:00-21:00 城内公民館 集会室3  高槻城公園文化芸術劇場がひとまずオープンしまして、敷地内に入れるようになっています。 あした帰った第三期はじまって初めての長丁場の稽古でしたが、その時間中にフラっと立ち寄りました。 劇場内で販売されていたパン、美味しかったです。 今回の中心的な課題は「幸せ」について二人組で喋り、その会話それ自体を後に再現するというもの。また 厄介な。 われわれは演劇をやっているのですが、演劇をやっていることと「幸せって何だろう」と考えることとが同義であるとも言える。演劇は(少なくとも今行っている活動は)最後には上演しなければならないという点が根本的に違うのですが。 美味しいもの食べて幸せを感じる、とか、音楽のライブで一体感を得る、といったことは分かりやすいし多くの人が共有できる事柄だと思いますが、もうちょっと分け入っていくと色々人によって違いが見えてくる気がします。 幸せを「瞬間」で捉える人と「持続/状態」で捉える人などもいそうです。私などは、「幸せ」があんまり意識にのぼってくることはない。幸せが阻害されたときに「不幸」を感じ、翻って幸せが分かってくる、みたいなことはある気がする。 様々な機構は、うまく機能してるときにはその存在に気づけなかったりするけど、故障などの不備が生じたときに「今までうまく行っていたのはあの仕組みのおかげだったのか!」と分かってくる、といった様な。 日常的にかけているメガネは、体と一体化してしまってあまり意識されないけど、フレームが歪むと一気に違和感が生じてくる…といった様な。 違和感なく、摩擦なく、過ごせるならそれが一番良いのかもしれない。 しかし生きていれば無限に摩擦は生じ続けているはずで、それに気づかなかったり、無いかのように扱ったり、なるべく減らそうとしたり、みんないろんな方法で摩擦に応答しているのだろうと思います。 ちなみに今回なんだか(明確な理由なく)私がべらぼうに疲れていて、世界との摩擦だらけだった感がありました。 「元気」というのも、幸せの第一条件かもしれない(8割方復活しました)。 ※公演サイトがアップロードされました。 ・ 劇研アクターズラボ公式サイト ・ 高槻城公園芸術文化劇場

空間、なにかで満ちてしまった

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3/14 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室 なにもない空間[The empty space]、そこに俳優と観客が一人ずついればそれが演劇になる と言ったのがかの有名な演出家のピーター・ブルック。 晩年、彼の演出したものを日本で観ましたが、実際に舞台と身一つ、といった感じでした。 1968年発表当時、この言明がどれだけアクチュアリティをもって響いたのかは分かりません。 いずれにせよ音響照明その他、装飾でごちゃごちゃしたスペクタクルに抗うといった「戦略」として理解できるものの、演劇の原理として考えるには、現代ではちょっと弱いと思ってしまいます。 そこでは人間同士が身一つで向き合う、みたいな原-コミュニケーションとしての演劇が志向されていたわけですが、ほんとうのところ「空間」はemptyではありえない。 「なにもない」ものとして設定された空間は、「なにもなさ」であまりに満ち足りているじゃあないか! このブログでもなんどかそういうことを書きましたが、人間(を含むあらゆる存在)は空間、状況、環境と切り離せない。それを無視して人間同士の純粋な関係を考えるなんて、なんとおかしなことか。 (大学生の頃に一度読んだだけなので、きっと今読んだらそんな単純な話ではない、示唆に富んだ本なのだろうとも思ってはいますが。) 前回に引き続き、「山のあなた」を一人ずつ上演しました。 6行の短い詩であるにもかかわらず、かなりバラエティに富んだ上演群でした。 5人のうち2人の上演に、「椅子を置いて誰も座らない」という「empty」それ自体を表現するシーンがあったことは面白かったです。 よく利用しているこの和室は、照明や障子、あるいは庭など、様々に雰囲気が良すぎて、ある意味では過剰な空間とも言える。ギミックでいろいろできてしまう…と、いろいろ使ってしまいたくなるのは仕方のないことです。 私も上演するならどうするだろう…と考えていたのですが、例えば庭に裸足で降りていって、グループline通話でぼそぼそと喋り、観客にはそれを聴いてもらう…みたいなことを発想していました。THE・ギミック演劇。 無論、ギミックはギミックで面白いんですが(したがってどの上演も面白かったのですが)、最初にそっちに向かいすぎると詩それ自体へと向かう気持ちが弱まる、のかもしれない。詩を効果的にというか、詩によりよく向かって

山のあなた

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3/7 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 渡辺健一郎 「山のあなた」という詩を小作品にして上演してみました。 参考 URL  http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D3_02.html あなた、って彼方とも書けるんですね。知らなかった。そして「あなた」には「彼方」の意味がある。 原文のドイツ語では(DeepLで翻訳してみた)普通に彼方の意なので、訳者が意図的に「あなた」を選択したということになります。 翻訳された当時、明治期には「あなた」の敬意が大変高かった。本当に遠くにいる人、といった具合。今調べた付け焼き刃の知識ですが。だから現代よりは「あなた=彼方」にズレはないのでしょう。 しかしいずれにしても「あなた」か「彼方」かで印象はだいぶ違いますね。「あなた」は現代では翻訳として絶対選択できない語ですが、しかし「あなた」と訳されたこの深みを知ってしまったら、それ以外の訳を考えることはもはやできない。 カール・ブッセ自身に選択させてもきっと「あなた」が採用されることでしょう!!! 神と言わなくても良いですが、何か遠くに、遠くにいるものに、手を伸ばすというこの経験の尊さ。二人称単数の、近くにいるようで決して到達できない尊さ。 危うい神秘性に回収されない仕方で、遠さに浸るようなことが可能か、どうか。 ------------------------------------------------------------ 上演ののちに、他の人にその上演を再演出してもらう、といったようなこともやってみました。 自分たちで創作する、のみならず、他の人の手、彼方からの手によって動かされる、というのもまた楽しみのひとつ。 時間があまりなかったので、今回は修正、微調整程度の再演出にとどまりましたが、大幅に、大元から再構築するといった様なこともやってみたら面白いかもしれません。 いずれにしても今日の上演ワークはだいぶ楽しかったな。題材が良かったからかもしれません。

記憶が表れるとき

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2/28 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室 渡辺健一郎 ※先週、講師の体調不良のためお休みでした。のため、2週間ぶり。2月も終わりの日、だいぶ暖かった様に感じました。 第2期の頃、 「質問」の形式に関して面白がっていた時期がある のですが、「思い出」なるものがどの様に「表」にあらわれてくるのか、この形を考えるのはどうやらかなり面白そうだと思い始めました。 「思い出づくり」をめぐって、講師から参加者たちに向けていくつかのお題が、宿題として出されました。「あなたが死ぬ時に思い出すのは、どんな思い出ですか?」云々。 もうこの質問から大変です。分かるわけないことを答えさせられるのですから。 分かるわけないことを考えるのはしかし、頭の血のめぐりが良くなる感じがして良い。 さて思い出が表に出てくるときというのは。例えば「走馬灯」みたいに、印象的だった何ごとかが洪水のようにフラッシュバックしてくるとか。写真を媒介にして、友人などと一緒におしゃべりしながら、少しずつピースを埋める様に思い出していく(そんなことあったっけ、あああのときあの店でご飯食べて、じゃあそのあと海行ったんだ、あれそうだっけ?)、とか。 高校生の時(だったかもはや定かではないけど)に亡くなった祖母、すでにかなり重度の認知症でしたが、毎日アルバムを見ていました。当時は、正直に言えば、毎日同じことをして何の「意味」があるんだろうと少しあわれむ様な気持ちで見ていたのですが、今改めて考えてみると、何か尊いような、しかしどこか苦しいような、そんな気がします。 電車の中で、ずっとインスタの写真を一覧で見ている人もかなり多くなりましたね。自分のだったり、他人のだったり。祖母のことと、少し重なるような、しかしやはり違うような。 ああそういえば小説をほとんど読んでいなかった(あんまり楽しく読めなかった)学生時代に、『失われた時を求めて』がすっと身体に入ってきたのを思い出しました。身体と記憶との結びつき、あるいは結びつき方、を延々と書いていましたね。 思い出の表し方として参加者から「交換日記」が出てきたのに何だか何か、ハッとしてしまった。 自らの記憶を、特定の誰かに向けて書くという異質さ。しかしこの異質なことを、われわれは今回の公演でやろうとしているのかもしれない。 いや違うか? 日記は、書いているときは「記憶を書く」の