空間、なにかで満ちてしまった

3/14 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室













なにもない空間[The empty space]、そこに俳優と観客が一人ずついればそれが演劇になる
と言ったのがかの有名な演出家のピーター・ブルック。
晩年、彼の演出したものを日本で観ましたが、実際に舞台と身一つ、といった感じでした。

1968年発表当時、この言明がどれだけアクチュアリティをもって響いたのかは分かりません。
いずれにせよ音響照明その他、装飾でごちゃごちゃしたスペクタクルに抗うといった「戦略」として理解できるものの、演劇の原理として考えるには、現代ではちょっと弱いと思ってしまいます。

そこでは人間同士が身一つで向き合う、みたいな原-コミュニケーションとしての演劇が志向されていたわけですが、ほんとうのところ「空間」はemptyではありえない。
「なにもない」ものとして設定された空間は、「なにもなさ」であまりに満ち足りているじゃあないか!
このブログでもなんどかそういうことを書きましたが、人間(を含むあらゆる存在)は空間、状況、環境と切り離せない。それを無視して人間同士の純粋な関係を考えるなんて、なんとおかしなことか。
(大学生の頃に一度読んだだけなので、きっと今読んだらそんな単純な話ではない、示唆に富んだ本なのだろうとも思ってはいますが。)

前回に引き続き、「山のあなた」を一人ずつ上演しました。
6行の短い詩であるにもかかわらず、かなりバラエティに富んだ上演群でした。
5人のうち2人の上演に、「椅子を置いて誰も座らない」という「empty」それ自体を表現するシーンがあったことは面白かったです。















よく利用しているこの和室は、照明や障子、あるいは庭など、様々に雰囲気が良すぎて、ある意味では過剰な空間とも言える。ギミックでいろいろできてしまう…と、いろいろ使ってしまいたくなるのは仕方のないことです。
私も上演するならどうするだろう…と考えていたのですが、例えば庭に裸足で降りていって、グループline通話でぼそぼそと喋り、観客にはそれを聴いてもらう…みたいなことを発想していました。THE・ギミック演劇。
無論、ギミックはギミックで面白いんですが(したがってどの上演も面白かったのですが)、最初にそっちに向かいすぎると詩それ自体へと向かう気持ちが弱まる、のかもしれない。詩を効果的にというか、詩によりよく向かっていくためにいろんな趣向を凝らす必要があるよな、などとは思いました。そして他の会場でやっていたらどんな表現が出たのだろう、という気持ちにはなりました。

ああなるほど、「なにもない空間」を一回経由してみるのは良いのかもしれない。必要なことなのかもしれない。
目に見える何らかの支えがないところに、ただたたずむ、といった様なことが。









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