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親密さ

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11/29 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺 大雨、というほどでもありませんがしばらくザーッと降りました。気温は高め。 そのせいもあってか、人は少なめ。雨が降ると残業が増えたりしますしね。おそらく色んな理由で。 気圧の変化で体調を崩したりとかもありますしね。体調には十分お気をつけください。 人が少ないと親密さの度合いが増すというか、じっくり話すにはこういう機会がもってこいなので、そういう流れになりました。 各々のパーソナルなことについて、公演について。 ここまでしばらく講師主導で、バザー×上演でどういうことが考えられるかという話をチラホラとしてきたわけですが、 物々交換にせよ金銭が介在するにせよ、おそらく講師はバザーという形態における出品者と客との親密なコミュニケーションに(少なくとも一つの)価値を見ているのだろうと思います。ちなみに私なんかは、色々物色するのは好きですが、あんまり声をかけられたいタイプではなかったりします。 いずれにせよ、「親密さ」というのはそれ自体で、色々な話題や考えるべき事柄を提供してくれます。 端的に言えば、親密さは共同体の力を生むと同時に、カルト化もしやすい。内側の結束を強めるということは、外側との断絶が増すということですから。 「誰か敵を作ると親密さは築きやすい」という意見も出ましたが、これは結構本質的な問題でしょう。 親密でありながら外に開かれる、そういう方途があるのでしょうか。おそらくかなり難しい(ほとんどありえない)ことだと思います。 また学校の教室のような空間の運営が難しいのは、否が応でも「親密な集団」への帰属が求められてしまうからかもしれません。 やや別方面からの話になりますが、演劇の現場は、基本的には親密な空間で、だから魅力があるのですが、 しかし親密さが行きすぎて? 問題が生じる、ということも往々にしてあります。 というより、同じ場所にいるそれぞれの人たちが感じている親密さに「ズレ」があると誰かが不快な思いをしたりする。 仲良しになって、相手を信頼しているから、許容されると思って率直な(ぶしつけな)発言をしたのに、 それが相手を大変不快にさせてしまった、みたいなことは日常的にもかなりあることでしょう。私もこういう失敗をよくします。 だからといって、相手を不快にさせることを恐れて、常に一定以上の距離をと

そしてまた一段一段と階段を降りていく

 11/22 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 担当:O 本日は準備体操として他のアクターズラボクラスで行われていた ・名前鬼 ・タオルバレー をした。年齢層が若いのですんなりできるかと思ったが悪戦苦闘。 タオルバレーは別のラボで最高三百数十回ラリーが続いたのでうちもできるようになるといいですね。 今回の稽古はバザーは一旦置いておいて、いつものように詩、ではなく手紙の演出を考えること。 題材はライナー・マリア・リルケが詩を志す青年フランツ・クサヴァー・カプスに1902~1908年にかけて送った『若き詩人への手紙』からのひと段落。 詩での成功を夢見るカフス青年は、自作の詩をリルケのような大成した先達の詩人たちや出版社に持ち込み何か助言をしてくれと頼んでいるようです。 それに対しリルケは、他人にどう思われるかということより、どれだけ自分の深部に潜り思索する事ができるかという事の方が大切であると一貫して述べています。私は批評がましいことはしたくないとリルケが言うように、カプスの詩を直接取り上げ指南することは一切ありません。自分自身の書かずにいられない根拠を探り、そのやむにやまれぬ気持ちに従うことだ。誰かにおもねり、指導や支援を求めるようなことは止めなさい。その作業はきっと、詩を書かなくなった人生でも決して無駄にはならないだろう、と。 そして当然、この方法を忠実に実行したとしても必ず詩で身を立てて行けるわけではないし、仮にできたとしてもカプスが承認を求める若い内に達成できる可能性は限りなく低いだろうと言外に伝えていることも分かります。 この手紙について参加者で話し合う中で様々な意見が出ました。 ・リルケは残酷である。カプスに売れるなといっているようだ ・カプスの気持ちはよくわかる。役者を続けることに一時は挫折したが、それでも続けたいという想いでやっている。やむにやまれぬとはこういうことではないか ・カプスを想うなら、もっと具体的な事をいってあげれば良いのに 僕自身戯曲と言うものを書き賞に応募していく中で、カプスとまるで同じ思いになり、誰かに助言を求めたことがある。十中八九、カプスが本当に欲しているのは赤ペンでここはダメ、ここは良いとチェックをつけてもらう添削だ。自信のない作品を強制的に改善して欲しい。成功への近道が欲しい。これが正直なところだと思う。リルケの言葉

善意は(いかにして)可能か

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 11/15 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺健一郎 現代に可能な「善」とは何かと、日々考えています。←はとりわけ私の話ですが、おそらくみんなそれぞれに、多かれ少なかれ考えていることでしょう。 ケアとか利他とか、他者への善、を説く言葉が様々に飛び交っていますが、そのこと自体が他者を配慮せねばという強迫観念を生んだり、独断的な善を根拠にした猪突猛進が別の誰かを傷つけたり、といったことも散見されます。 (とはいえ 『「利他」とは何か』 などはそういうことも踏まえた大変良い本) 優しく背中を撫でることも、強く背中を押すことも、ただ背中を見ることも、それらが絶対的に善だ悪だと決めることはできません。言ってしまえばその時々で善にも悪にもなりうるでしょう。 じゃあ何でも良いのだと開き直るのではなく、どんな活動にも質的な差はないのだと投げやりになるのでもなく、それでもなお可能な善とは、と問い続けることしかできない。演劇活動は、このように問い続けることとともにあるべきで、そうでなければ(いったん)辞めてしまった方が良いのでは、くらいには思っています。 演出家主導で、バザー×演劇、について色々思案しているわけですが、これもまた利他や善を考えるための一つの方法でしょう(演出家は「贈与」という言葉を使いましたが、ほとんど同じ意味ととらえて良いでしょう。 『世界は贈与でできている』 も結構良い本でした)。 お金を取るより取らない方が利他的か、というと必ずしもそうでもないでしょうが、しかしお金儲けが目的ならば利他的とは言えないでしょう。 というか、何かを「目的」とする場合、行為には必ず利他と相反する何事かが含まれてしまう。 (カントの「目的の王国」が〜云々などと書こうとしましたが流石に自重しました) 今のところ私は、「利他的な行為が存在する」のではなく、「熱中していたらその活動がたまたま利他的になった」くらいのことしかないだろうな、とは思っています。 俳優もあるいは観客も、熱中できる何事か、がバザーで可能になれば良いなとは思います。ただそもそもバザーにそんなに興味ない人もいるので、熱中できるモチーフかどうかはイマイチどうだろう、とも思っています。まあ、まだ分からない。 完全に私個人の話ですが、もう善とか分からないし考えても仕方ないのでは? どんな活動もあんまり意味ない

公演に向けて・バザーの経験

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  11/8 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 担当:o 公演を7か月後に控え、伊藤さんから”バザー”というアイデアが提示されました。 まずは参加者らのバザーで買い物をした・出店した経験や思い出を話していきます。 チャリティーの色が強いバザーとフリーマーケットの違いも議題の一つです。 参加側 ・子どもの頃おこづかいもほとんどない中、ドラえもんの映画のビデオが欲しくて何週もお店の前を通った。 ・縁日のような雰囲気が楽しい。 出店側 ・おにぎり屋 (保健所に申請を出した・コスパが良く高く売れた) ・ペープサート (紙人形劇) ・インターネットフリーマーケット (メルカリに出品) その中で伊藤さんがバザーに惹かれた要因の一つは、何度も見て回るほどの商品との偶然の出会いではないかと述べました。 また、バザーと演劇公演の食い合わせの悪さを指摘する声もありました。偶然の出会いを保証するだけの品物は座組だけで集まるのかどうか。バザーの体験を再現できるのか。 それを受け、バザーでは何を売ることが出来るのかをチームに分かれ話し合いました。 ・物に付随する思い出を併せて販売する ・ボディペイントやヘナタトゥー、コスプレといった非日常の仮装 ・役者であることを活かし、観客の提示した設定・脚本で演じる ・客の悩み事を、その相談をただ受けるということでなく、演者で真剣にディスカッションし見解を示す などといった、物以外を売る事がふさわしいのではないかという意見が多く集まりました。 新劇場の地図を見ながらどこで公演を行うべきかも話し合われました。 堀、廊下、搬入口前、屋上……バザーを上演する未知の試みのために数多くの意見が交わされました。

0(?)→1

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11/1 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 → 高槻城公園芸術文化劇場  去年は参加者4人だった「あした帰った」、見学者も含めだいぶ増えました。 だいだいみんな仕事終わりに集まっているので、日によってバラツキはありますが、今日は欠席1名のみでなんだかすごく人が多いな! という感じでした。 4人のときは4人の親密さが深まっていく感じが心地よかったですが、人が多いというのもそれだけで価値だな、これもやっぱり良いな、という印象。 人身事故が本日高槻付近で2回あったようで、遅れる人がチラホラいました。 気圧の低い月初、ということも関係しているのでしょうか。 ゆらゆらと続くコロナ禍のせいもあってか、生活保護の申請が増えているというニュースを見ました。 いろんなことが上手くいくように演劇をやっている。つもりでいます。とりあえず私は。 高槻現代劇場が閉館して、そのすぐ近くに「高槻城公園芸術文化劇場」という新たな劇場ができます。 われわれはそこでの6月公演を目指して集まっているわけですが、本日はひとまず形になった上演場所を見学させてもらいました。 写真はまだ公にはできないですが、色々触発されました。やはり 「場」 にはたくさんのことどもが生じます。 第二期のときも、あるいは私は知りませんが第一期のときもそうだったらしいことに、この集団はどうしても創作スケジュールがだいぶキツくなり、後半かなり疲弊するということがあるので、今年は講師にせっついていました、はやく創り始めちゃいましょう!と。 ただ、講師はまず劇場見てからじゃないと、と繰り返し言っていました。「これは創作に取り掛かりたくない言い訳なのではないか…」とも思っていたのですが、まぁやはり見ないと始まらないですね。 「演劇」に色々な想いを持っている人も、演劇未経験で普段あまり劇場に入らない人にも、さまざまに感情が生じたようです。 単純に新しくておしゃれで綺麗、というものもありましたし、この空間でどういうことができるのか、と上演に関連づけて具体的に考えていた人もいました。 私の感覚では、高さと幅が非常に特徴的で(高く広い)、どうやったらここに立っていられるのだろう、といった問いが生じました。 創作は"何らかの"問いからしか生まれない。 上演をする、というのはきわめて特殊な行為ですから、舞台に立つという