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書くことと語ること

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5/21 13:00-19:00 城内公民館 集会室3→高槻城公園芸術文化劇場 中スタジオ3 5/23 19:00-22:00 高槻市生涯学習センター 会議室1 クリエイションも佳境、大詰め、のはずなんですが、いくつかのシーンでテクストが一から作り替えられるなどしています。 『あなたは山になる』のテクストは8割方、参加者によって作られているのですが、日々考えていることも行きつ戻りつ、生活の状況も右往左往しているわれわれですから、言葉の出力のされ方が一分一秒変わっていくのは当然といえば当然、といった具合です。 演出家は「自分から出てきた言葉」を大事にしようとするのですが、この「自分から出てきた」という点が大変厄介で、それを文字に起こすのに技術が要るということもあるのですが、さらにその文字を発話するというのは輪をかけて大変なことだということが改めて感じられました。 確かに自分の体を通じて出力されたテクストだとしても、しかしそれを声に出すということが「自然」にできるかといえば決してそんなことはないわけです。 書く、ということと喋る、ということは、人によっては「全く」質の違う行為であって、書けるけど喋れない、あるいはその逆、といった例は枚挙にいとまがありません(例えば私は「書く」に極めて強い負荷を感じてしまうので、喋るようにして、それを転記するような仕方でしか書けません)。 もちろん、とくに違和感なく書き、同じように喋る、ということができる人もいる様ですが。 色々要因はあると思うのですが、書いたことを喋る場合には、単純に自分と自分の言葉とに大分(時間的)距離がありますので、その辺が最初のつまずきポイントになりそうです。 自分で書いたはずの言葉と自分の声との間に、必然的に生じるズレ、この違和感とどう付き合っていくか。 そもそも「自分の書いた言葉」というのも、100%自分が考えていることそのままかといえばそんな訳ありませんので、例えば「言葉に責任を持たねば」みたいなことを厳密に考え始めると収拾がつかなくなってきます。 いずれにせよ演劇の場合は練習段階で「自分の」言葉を何度も繰り返し言わねばならないわけですから、そんな不自然な状況他にはほとんど存在しないため、どうしたってぎこちなくなります。「自分の言葉なんだから言えるはず」なんていうことはないわけです。 このことが演劇一般の(他

「ひとのために何かすることで自分が幸せになるんですね」

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5/14 13:00-19:00 長岡京中央生涯学習センター 会議室1、3、創作室  5/16 19:00-21:30  城内公民館 集会室3 ※リンクは全て当稽古場ブログの過去記事 タイトルは、他人に対するハンドマッサージの練習をしていた参加者が、繰り返し大きなあくびをしながら発したフレーズです。手を揉まれる側ではなくて、揉んでる方が大欠伸を繰り返していて笑ってしまいました。 私はどちらかと言うと 「利他」の甘美すぎる響きにはやや懐疑的なタイプ ですが、しかし「何かをしてあげる」ということが気持ち良いというのは確かにあるはずだとも改めて思いました。 ただ、人が喜ぶことを嫌々やる、というのが嬉しいはずもないので、やはり利他と利己が一致する時に快楽が生じるのだなと。 アラン『幸福論』 に「あくびの技術(L'art de bâiller)」の章があります。 「あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。」(神谷幹夫訳、岩波文庫、1998) タイトルが「あくびの"技術(=芸術)"」となっているのは面白いことだなと思います。基本的にあくびは意志や意図とは無関係に、勝手に出てしまうものでしょうから。 ただ、もし緊張状態がデフォルトになってしまっていて、それに抗うために気を緩める、一息つく、頭を空っぽにする、みたいなことで「あくびを許す状況をある程度意図的につくる」ことができるならば、それは「あくびの技術」と呼ばれても良いのかもしれない。 また少し違う話になりますが、あくびをわざと出そうとしたりすることもできなくはなさそうです。目を瞑り、耳の後ろあたりに力を入れ、胸呼吸(?少なくとも、腹を膨らませる腹式呼吸ではない)を深くする、肩のあたりを震わせる、みたいなことを同時にやると、あくびができる!もう少し細かくいえば、目を瞑りながら、眼球は少し下を向いているだろうか。 今、何度か試してみていますが、何度でもできますね。「あくびっぽい動き」をしているんじゃなくて、自然と涙も出てきますし、こ

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2023/5/7 城内公民館 集会室3 13:00-17:00 2023/5/9 ゆうあいセンター 研修室 19:00-21:30 共感、共通、共鳴、共産、共同、共有、嗚呼なんと美しい「共」! 共にというのはしかし、その強度を増そうとすればするほど、強烈な摩擦も生じるもので、協調、競争、教条、強壮と様々に求められる場面があり、場合によってはそれが脅威に凶暴はたらくこともあるでしょう。 今日自転車で仕事先へ向かう際、或る小学校の掲げるスローガンが大きく門のところに貼ってありました、「共に歩こう」といった内容でした、「共に」というのはしかしやはりどうしても、「居合わせてしまった理解の及ばない誰か」ともどうにか「共に」あらねばならない、という、半ば狂気じみたことを含意しているはずなので、ただ美しいだけではもちろんなく、相当な苦痛や根気も必要でしょう、それを度外視した「共」はなんと空虚に響くことか。 ああそういえば思い出した、私は人生で3人ほどどうしても嫌うことしかできなかった人間というのがいて、そのうちの一人が中学一年のときの同級生だったんだけれども、担任との面談で「彼とは2年時には別のクラスにしてください」と直談判したのに、(おそらくわざと)同じクラスにされてしまったのだった。 2年の終わりに同じ担任に同じことを言ったら「やっぱり無理だった?」と返されて、一体この人は何を言っているんだろう、とかなり強く疑問に思った記憶がある。 (その担任はしかし良い人だった、良いひとだったからこその判断、みたいなこともあったのではないかと思っている) しかし「共」からは逃れることができないというのもまた本当のところでしょうから、苦しくとも、それでもなお共、と言わねばならない。 劇団は共同、協働というのみならず、何らかの共謀を画策する集団かもしれない。劇団の共、観客と俳優との共、相手に、自分に、いかなる負荷もかけないというわけにはいかず、それはかなり苦しいことではあるけれども、かくも苦しい共なるものに、どうにか接近していくために、どうしても必要なことなのではないかという気もします。 今回の芝居、共、が必ずしもテーマではないのですが、しかし共をめぐって様々に思考が喚起されるような上演になりそうです。 考えれば考えるほどに面倒な事柄ですから、避けて通れるならその方が楽なのですが、しかし演劇を

懸命に戯れております

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 4/30 安満遺跡公園 多目的室 13:00-17:00 5/3 同、多目的スペース 13:00-17:00 概ね週2回の稽古になる今週からは、2回分まとめてブログを書きます。 高槻に数年前、安満遺跡公園という東京ドームが5個くらい入る広さの大きな公園ができました。 そこのスペースを借りて、今週2回、稽古が行われました。 各々が各々の課題に取り組んでいるので、まとめて書くのが難しいんですが、いま中心的にやっているのはテキストを「書く」「読む」という大きく二つのこと(あとダンス)です。 上演のために書くとか、客を想定しながら読むとか、ある意味ではかなり「異常」なことですので、各々、様々に違和や「引っ掛かり」を感じながら、書き、読み続けています。 2回とも、演出家が子どもを連れてきていたので、私や俳優は時折「一緒に外で遊んでくる(可能ならば、昼寝させるほどに疲れさせる)」という課題が与えられたのですが、これが大変面白かった。 「パパと一緒にいたい」とグズる子どもを外に連れ出し、存分に楽しませるにはどうすれば良いのか。 彼女が「やりたいこと」をサポートしたり、「達成したこと」を褒めそやしたりするというのはもちろんなんですが、「自分が忖度されている」ということに、なんだかうっすら気づいているような気配も感じました。 子どもがノってくる方策としては、「大人も共に楽しんでいる姿を見せる」というのが一番効果的だったんじゃないか、という気がします。 とはいえ、やっていることが「単なる児戯」だと思ってしまったら、大人もなかなかテンションが上がってこない。無理して上げなければならない。 ただ、やはり子どもの世界の見方というのは極めて特異なものだったので、それ自体が本当に楽しいことだとも感じられました。 例えば。 綺麗な白い小石が無数にころがっているスペースがあって、それを投げたり、身体にかけたりして遊んでしていたのですが、子どもがちょっと離れたところまで往復して、そこから石を運んでくる、といったシーンが何度かありました。 「綺麗な白い小石」が必要なだけだったら、そこらへんに無数にありますので、どこかへ行く必要はまったくない。しかし彼女にとっては、「あそこの場所の、あの石たち」というのが何らかの価値として感じられていたのでしょう。 大人の世界からするとあまりに無駄と感じられるこの考え、