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演技を、上演を、よむ

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9/27 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 担当:渡辺 ※タイトルの「よむ」の上に「検討する」とルビがふってあると思ってください。 1.今年7月に閉館した高槻現代劇場の建物を全面的に使った『9月0才』というツアー型演劇が、9月17日〜25日に行われていました。 高槻で集まり、(コロナ禍の諸々に見舞われ、存分に、とはいかなかったにせよ)ずっと利用してきたわれわれにとっては、高槻現代劇場は思い入れのある場所です。 その公演に客として参加したメンバーが多かったため、感想シェアなどしました。 キャパ1700人の大ホールや、結婚式会場としても使われていたらしい会議室、すでに廃墟のようになっていたレストランなどを、ガイド役の俳優たちに導かれるままに、10人1組の観客が巡回していく上演でした。 内容についてはさておきますが、「座って良いのかどうか分からない椅子」が並んでいると、そういうものに私は率先して座ってしまう。禁止されてないなら良いだろう、という発想。一人が座ると、他の人も続いて座ります。 ただ、誰も座らない回というのもやはり多いようでした。 体験型演劇(あるいは美術の語彙で言えばインスタレーション)は、参加者たち自身も作品の一部になっている。お互いがどういう反応をするのか、ということをお互いに見ている(ちなみに、自分たちの通ってきた道を別の場所から覗き見る、というシーンがあり、次の回の参加者たちの反応を見ることができるなど、「観客が観客を観る」という演出がかなり意図的にほどこされていました)。 劇場という特殊な場所ですので、「観る」という行為に特別な意味が付加されている。いやでもそれに気づく。よくある体験型上演よりも、非常によく練られ、考えるところの多い作品だったように思います。 2. 前にもやった 「はぁって言うゲーム」を再び、少し。 同じ言葉でも、言い方一つでいろんなイメージを喚起することができます。 ゲーム自体は面白いんですが、同時に「結構当たってしまうこと」についても考えていました。無論、演技者も当てさせようとしている(嘘はついていない)という前提があってのことになりますが。 同じ言い方から複数の含意を読み解きうるのがコミュニケーションだろうと思います。演技の仕方と、それが意味するものとが一対一対応してしまうなら、コミュニケーションは面白くなくなる。

てゆーか、裏ノリって感じ?

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9/20 19:00-21:00 城内公民館多目的室 担当:O ゲスト講師古川さんの4回目のワーク。後半のダンスのために今回は雑談なしで入念に柔軟体操をする。ほぐすというより、身体のスペースに余裕を作るといった感じ。一時間も身体を伸ばし続けると不思議な浮遊感が足先まである。身体を稼働させることのできる範囲が広がっている。特に、胸骨を指で押し込み背中を丸めていく体操は肋骨の内側・横隔膜の広がりを体感させてくれた。念入りな準備体操は身体に予期せぬ動きをもたらす。 まずは二人組になり、片側は目を瞑り、もう一人はその背中に手のひらを添えて、その人を操縦するワーク。手のひらの位置はなるべく変えずに、圧を調整する事で目を瞑った人を曲がらせたり、戻らせたり、座らせたりする。目を閉じて他者に身を委ねるワークをする時にいつも思うのは、リードする側にもされる側にも上手い下手があり、そもそも全幅の信頼を寄せる事は無理で、ある程度経験からの予測を必要とする。ワークの場が演劇だとそれが他者とのコミュニケーションに終息してしまうが、この時は導かれる・吸い寄せられる感覚があり、そして歩幅にリズムが生まれていた。思えば先週の、声でオーケストラをするワークや飛び続けるワークも、自身のリズムを創造する事が理解への第一歩であったのではないか。 そのワークを受けて、次は導き手がいなくなった状態でもその感覚を維持し、緩やかに踊った。半分に分かれてお互いを見合ったが、普段ならリズムをとることがないだろうメンバーが浮遊感に任せ身体を揺らすことで独自のリズムを刻んでいたことに驚いた。浮遊感はリズムを生み、グルーヴを生む。日本人はリズムの裏打ちが分からないというが、感覚的に理解するよりも身体が自然とリズムを取る環境・状態にしてあげることができるのだなと思った。 最後は手放しに、一人が前へ出て踊り、後ろに控える一人がそれを真似る自由演技。せっかく動ける身体になったので、振り付けではなく奔放に動いてみたらいいのになと思うシーンが多かった。演劇のワークで、向かい合わせになりどちらからともなく動いてお互いそれを真似るものがある。それを深めたワークに、積極的に身体を動かそうとするのではなく、受動的に、それでもなお動く箇所を真似ていくというものがあるが、そういった感じにならないかなと思って見ていた。振り付けでないダンス、身体表

もはや迷えぬ大人たち

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9/13 19:00-21:00 城内公民館多目的室  担当:渡辺 古川友紀さん、講師として3回目の登場。 過去2回は「あるく」ということ、あるいはその記述が主題になっていましたが、今回はおそらく「迷子」が主題です。 前半、「子供の頃の怖かった記憶を話しながらストレッチ」「身体のいろんなところから声を出す」「声のオーケストラ」「4分間ジャンプし続ける」など、様々にやりました。 特に声に関する二つのワークは大変良かった。 合唱などをするときにはよく、頭の、脳天から声を出すイメージで!と言われます。そんなことはもちろん不可能なのですが、それをイメージすると確かに音色が変わる。 それの応用編?で、目から、膝の裏から、肝臓から音を出そうとすると、それにともなって身体の使い方が変わり、音色ももちろん変わる。 我々は合理的に発話、発音しているのではない。「言い方」(演技の仕方)を変えるためには、身体を、身体のイメージを、変えていく必要がある。そんなことを思っていました。 それから後半。 古川さんの、大人になると「迷子」ってなかなかなれない、というのは、かなり噛みごたえのある発言でした。 スマホを持たずに知らない土地に行ってみても、海や山の位置関係から自分のいる位置が大まかにでも把握できてしまう。 子供の頃、なるほどそういえば、「迷子」になると世界の終わりかと思うほどに恐ろしく、泣き叫んだ記憶があります。 20分間の即興をしました。特にストーリーを作っていくわけでもなく、ルールを設定するでもなく、みんなで迷子になるように、手探りで感触をつかんでいくといった様な。 複数人で一緒に即興すると、タイプの違いが如実にあらわれて大変面白い。 環境(他の人の動きや、なんとなくの空気など)に反応してそれにあわせていく人や 既存の環境を壊していくべく色々新たな要素を追加していく人、 どうふるまって良いのか分からず機会をうかがっている人、 自分のやることをある程度事前に定めて、それを貫こうとする人、など。 それら全てが「環境」になっている。 すぐ亡きものにされる流れや、みんなに積極的に採用されてメインストリームになっていく流れ、といった違いもありました。特定のリズムや形など、なんらかの模倣しやすいものはメインストリームになりやすい、というような印象もありましたが、本当にそうかはもう少し検証が必要そ

(真面目に)演技をする

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9/6  19:00-21:30  城内公民館 多目的室  担当:O 稽古が始まる前、メンバーが先日観たBEBERICA『水の駅』の話になった。 水の駅は無言劇であるのだが、それを乳幼児とおとなを対象に上演した作品である。 言葉のない上演は乳幼児の遊び心を掻き立て、周囲のおとなたちはそれをなるべく自由に振舞わせる。率直な気持ちを声に出し、パフォーマーと同じ舞台で、観るというより共に過ごし『水の駅』を体感した子どもたちは、上演が意図した自由を越えて自由でいることができていたように思えた。空間に触発された子どもの素直な気持ちをそのまま舞台作品の橋渡しにする、その気持ちそのものが作品になったような舞台であった。 一つ目のワークは『はぁって言うゲーム』を5人でプレイ。 BEBERICA『水の駅』とは違い、演者がストレートに演技をして他者に情報を伝える演劇ど真ん中の力が要求される。伊藤ラボではよくテキストを与えられ、演技より”再現”することを求められる。『はぁって言うゲーム』は1文の台詞が割り振られるが、演技するというアプローチと再現するというアプローチでは感触が違うように感じられた。『水の駅』は水場に老いも若きも水を求め集う作品であるが、それは観客から見て演技と感じられるだろうか。演技はディティールを創作する必要があり、自身がどれほど水を欲しているか、蛇口に故障はないかなどのストーリーが見えてくるものだと思う。客観的にそう見える必要があるし、あくまで現在初めて経験した出来事であるように見えなければならない。 再現ならそれは過去のことであるのが前提である。しかし過去の出来事をを再び顕現させることはできない。だから自身の身体で可能な限り近づける、という作業方法になると思う。 第三者に理解させるには、”近づけた身体”よりもストーリーを与えるほうが簡単である。再現をメインにテキストを読んできたラボで、即物的に文脈を理解させる演技をしたのは新鮮であった。7月のこれからのカリキュラムを考えようというワークで、怒ったり泣いたりしてみたいという意見があった。感情を表現することは、演技とも、自身の経験から再現したと捉えられることがあり、その差が如実に表れるのではないかと思った。 2つ目のワークでは、今回は欠席している参加者が今週末出演する舞台のウェブページに載っているテキストに演出をつけた。