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4月, 2022の投稿を表示しています

かたりの作法

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4/24 13:00-17:00 蔵 4/26 19:00-21:00 高槻現代劇場205  担当:渡辺 演劇という形式の中で、観客に語りかけること、その難しさに直面しています。 語り/語られすることがそもそも好きな人、が相手なら良いのですが 演劇というのは「直接」語りかけられることのほとんどない表現形態なので 一対一の関係の中で語りかけるというのは、思っていた以上に厄介な営みでした。 そういえば坂部恵が『かたり』って本を書いていましたね、難しくてあんまり理解できていないし覚えてもいませんが 語ることと騙ることは同じ位相にあって、「話す」こととはやはり違う、といったことは書いていたような気がします。 そうですね、演劇は「ものがたり」ですね、何らかの。 仮に「自分」のことを喋るにしても、過去の記憶などをある種の作品に仕立て上げて、それをあらためて言葉にする、といった仕方で…ちょっと上手く言葉になりませんが、「話す」のではない、ということから「語る」を考え直すことはできるかもしれないなと思いました。

嗚呼心許なき俳優、あるいは不特定の「あなた」

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4/17 13:00-17:00 蔵 4/19 19:00-21:00 蔵 演劇に、俳優に、何ができるのか、何を言いうるのか、考える日々が続いております。 4/19、BEBERICA theater company 弓井茉那さんがワークショップ講師として来てくれました。 音をめぐる、触覚をめぐるワーク。 われわれがいかに、日常的に感覚しているはずのことどもを無視しながら生きているのか、ということがかなりありありと分かりました。 「音で触る、と意識してほしい」という指示があったのですが、やってみるとなるほどよくわかる。 (単純に空気の振動が起きているという意味で、実際に物理的な「触れ」感もあるのでしょうが) 音は決して「対象」としてのみ存在するのではない。私との接触によって初めて音は音として存在しうる。 私にとって最も 印象的だったのは、弓井さんが目を瞑った客と一対一で接する芝居に俳優として参加したときに 「心許ない存在」としてそこにいた、と言っていたことです。 確固たる拠り所があるわけではない、なんとなく落ち着かない、しかしたしかにそこにいる、そういう存在としての俳優。 私も昔から、「舞台に立つこと」「演じること」にいささか居心地の悪さを感じていました。 だってこんな不自然なことがあるだろうか。 この不自然さこそ演劇の肝であり妙であるということが、ようやくわかってきた。 そういえば17日には谷川俊太郎の『あなた』を少し読みましたが、これが私には相当辛かった。 「あなた」という呼びかけを、俳優がすることの異常さがある。 「あなた」、と呼びかける場合にはどうしても「わたし」が前提とされるだろう、しかし俳優は「わたし」がそもそもよく分からない存在だから、どの様に「あなた」などと言えるのだろうか。かなりの気持ち悪さがあった。 ただわたしを前提しない呼びかけ、あなたも特定しないような「あなた」という発話があるのかもしれない。 そういえば伊藤潤一郎という人が 「不定の二人称」というテーマで本を出していました 。 彼は雑誌・群像で「誰でもよいあなたへ」「連載・投壜通信「あなた」を待ちながら」といった文章も書いていました。 投壜通信というのは、誰かに届けと願って手紙を壜に入れて、届くか届かないかは分からない、届いたとしても誰に届くかはもちろん分からない、偶然の波にすべてを任せる発話

かくも恐ろしき虚実のあわい

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4/10 13:00-17:00 蔵 4/12 19:00-21:00 高槻現代劇場 担当:渡辺 具体的に考える、現実的に考える、ことはなんと苦痛を伴うのだろうか。 ああずっと想像と象徴の世界にいたいとも思いつつ、しかし同時にあちらとこちらとが結びつく点にとどまらねばならないとも強く思っています。 演劇というのはその意味で、どうしても現実のことを考えざるをえない、という点が良いのでしょう、 イヤでも怖くても 虚構と現実は裏表なのだ、虚実皮膜なのだなどと言うのは簡単なのですが どの様にして重なっている、重なりうる、重ねうる、あるいは引き離しうるのか、みたいなことを考えなければあんまり意味がないのでしょうね、 現実に虚構というフィルターをかけるのか 現実に虚構を滑りこませるのか 現実とはそもそも虚構と区別ができないのか 虚構によってようやく「現実」が見えてくるのか うんぬん。 ただ歩くということ、しかし時空間を制限して 手をつなぐということ、半強制的に 暗闇に身を潜めること、覚醒したままで どこに現実がありどこに虚構があるのか? この問い自体が恐ろしく感じてきました。 違った、この問いが恐ろしいことは知っていたけど、最近それを思い出したのでした。

質問と安心と

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4/3 13:00-17:00 自宅 4/5 19:00-21:00 現代劇場205 (※4月はほぼ日・火で稽古があるもんで、あわせて書いていきます、ね) 「質問」って面白いんですね。知らなかった。 あした帰ったは、第一期の公演が「質問と答え」というタイトルで、まさに「質問」をテーマにしていました。 私はその頃には関わっていませんでしたし、上演も直接は観ていないので、いまいち「質問」の奥深さがわかっていなかった。 前回 も「質問」と「問い」との違いを書きましたが、 もっと様々に種別?ができそうです。 相手からの回答を必要とするもの。 投げっぱなしでよく、回答の要らないもの。 (あるいは回答などできず、心にとどめておくしかできないもの) 「質問」という体裁をとって、詰問するもの。 (あるいは日常の態度を改めるべきだと強く主張するもの) 「質問」という体裁をとって、聞いてほしい自分の想いを届けるもの。 普通ひとが考えてしまうこと、とは違う考えを喚起させようとするもの。 (あるいは質問者の中に明確に「正しい回答」が存在するもの) 質問それ自体が、一つの物語になっているもの。 簡単に回答ができてしまうものや、簡単に回答を拒絶してしまう場合を除いて、 普通に会話をしたり人の話を聞いたりするよりも印象に残ることが多い気がします。 それは、通常の意味でのコミュニケーションが単純には成立しないからではないか。 過去や未来、あるいは日常的には気づいていない自分の様々な感覚、考えに想いを巡らせなければならないからではないか。 …と書いてから思いましたが、↑のことは、私個人が質問に真剣に取り組もうという意識が強すぎるために起こることにすぎないかもしれません。 多くの場合、「簡単に回答ができてしまう」ないし「拒絶してしまう」のかもしれない。 厄介な問い(例えば「あなたは何ですか」)に対して、「人間です」とか「わかりません」といった具合に。 「質問」だけで面白いのではなく、何らかの「回答」の態度が要るのかもしれない。 あるいは、そのような回答の態度を促す質問の仕方、ないし適切なトーンがあるのかもしれない。こんなに演劇的なことはないかもしれない。 あるいはまた安心を得る、ことについて。 どういうときに安心を覚えるか、ということがやはり人によって違うようです。 目を瞑って、誰かに手を引いてもらう