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忘れようとしても思い出せない/あした帰った

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 2/14 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 渡辺健一郎 タイトルは公演タイトル(仮)と団体名です。 「思い出」ないし「思い出作り」をめぐってクリエイションが始まりました。 今回の稽古では、一つには、「思い出作り」というワードをめぐって何を考えるか、三人ずつのチームに別れて話し合い。 もう一つは、そのチームのまま、「“実際に”その三人で思い出作りをしてみてください」という課題。 大変興味深かったのは、「思い出=記憶って、意外と捏造されちゃう」という話。 近親者の同じエピソードを何度も聞いていたら、次第に自分のエピソードだと思い込んでしまうようになって、本当に自分が経験したかの様な「思い出」が形成されていた、というもの。 これは結構ありそう。 例えば私は、「卒業式」系のイベントで泣かなかったことがないのですが、そしてそれは「大事な思い出」のはずですが、あれだけ楽しかった高校の卒業式で、あれだけボロボロ泣いたのに、それを思い出そうとすると「舞台に立って泣いている自分を客席から見ている」画が思い浮かぶ。 その場に立っていた確かな自分の感覚や感情の記憶ではなくて、もしかしたら何か写真で見たイメージかなんかを想起して(あるいは完全に捏造して)勝手に再構成している。 そういえば、記憶捏造系の演劇ってあんまりみないけど、そういう映画は結構あるかも。その最たるものは『マトリックス』か。 (ナショナルシアターライブでやっていた、『プライマ・フェイシィ』もある意味ではその系列の演劇だったか…) もしかしたら視覚の強調された「映画」という表現媒体の方が、「記憶」を主題にしやすいのかもしれない。それを問題とせざるを得ないのかもしれない。 いずれにせよあまりにトラウマ的な経験をしたために記憶を抑圧したり改ざんしたり、といったことはよく聞かれますが、ポジティブに生きていくための手段の一つだったりもすることもあるでしょう。 「シンパシー(同情)よりもエンパシー(共感)」を、という表現も最近よく聞く気がしますが、 (それを広めた人の一人であるブレイディみかこは、そんな単純にエンパシーを良いものとしていないはずですが) エンパシーは例えば「人の怒りを自分ごととして捉える」といったことを意味している。 もしそれが(そんな演劇的なことが!)可能ならば、「経験したことのないことを思い出す」こと

消え物はスーベニアになりうるか

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 2/7 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺健一郎 前半。「かごめかごめ」でしばらく遊びました。なんだこれは。楽しい。 「みんなで一斉に声を出す」というのは、それだけで陶酔(あるいはそれに類する何か)を引き起こしますが、やはり肝となるのは中心に座る人。 なんとか声を識別しようと頑張るのですが、どんどん混ざって溶けて、よく分からなくなってくる。目を瞑っていてもなんか気持ち悪くなっていく様な…しかし同時に敬虔な(あるいはそれに類する何らかの)気持ちにもなってくる。 この曲と遊びは、ミステリアスな音階もあいまって、いろんな作品でモチーフにされています(『岸辺露伴は動かない』とか)。 しかし重要なのは「円」、「回転」、「多声性」などではないかと思うのですが、このあたりが強調された作品、何かあったかな。 最近こういう宗教的な? 陶酔する/させる技術に大変関心がある。演劇の歴史もまた、陶酔と覚醒の歴史ではないか、などと考えていたりして。 後半。最近後半は話あってばかりいます。後半からしか来れない人もいるのでやや申し訳なさもありつつ。 いずれにしても創作のテーマ(キーワード)は「思い出/作り」に決まりました。 私の第一感は「思い出って<作る>ものか?」といったものでした。 「なんだか心に残ってしまったもの」を思い出と呼びたい気持ちがある。 とはいえ、「○○に一緒行ったよね」みたいな「共通の話題」みたいなものは重要かもしれない。 一人では思い出せなくても、思い出を共有している人たちで話をすることで、思い出が補完されていく、みたいなこともあるかもしれない。 あと、「小学生時代に毎日通っていた通学路の景色」は覚えていなくても、「修学旅行のバスの中の一幕」は覚えているかもしれない。 「思い出に残りやすい条件」みたいなものが、もしかしたらあるのかもしれません。 「モノより思い出。」なんて日産セレナのCMがありましたが、モノは意外といろんな思い出を想起させます。バザーについて考えているときにもそういうアイデアが出てきていましたが、「思い出の品」は、品物それ自体以上に、やはりそれが秘めている物語が重要だったりする。 そしてもしかしたら実際の「思い出の品」である必要はないかもしれず、それに似ているものでも良かったりするかもしれない… いや、この細かい傷はあの時の

恐らく表現一般について

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 1/31 19:00-21:30 城内公民館多目的室 担当:渡辺健一郎 「現代は 距離 がバグってる。あらゆる人が遠いしあらゆる人が近い」と、私の塾講師時代の教え子が言いました。 今までは表にでてこなかった問題が、SNS等によって比較的容易に可視化される様になりました。遠くて見えなかった問題が、手元に感じられる様になりました。一人ではどうしようもなかった問題を、多くの人で共有して解決に向かうことができるようになりました。 ところが一足飛びに 距離が 越えられるようになったのと同時に、いろんな問題の重さもまた分かりづらくなってきた様に感じられます。足元の大きな沼に気づかず、遠くの水たまりにばかり注意が呼びかけられる、みたいな事態も散見されます。 「多くの人が共有して」? われわれは一体何を共有しているのだろうか。 前にも書いたことがある( 「親密さ」 )のですが、演劇は、表現のために適切な 距離 をはかるのみならず、 距離 それ自体を表現している様なところがあるんじゃないかと思っています。 距離を失った時代に、演劇によって適切な距離を取り戻そう!みたいな素朴な話をしたい訳じゃありません。ただ、何ものかが生きていく上で、「距離」が問題にならなかったことはないはずです。獲物や外敵までの距離がどれくらいか、みたいなことも含めて。 インターネットの発達は、いろんな距離を越える営みを可能にしました。しかしそれは距離を考えなくて良いということでは決してない。 ここ数週、自/死をめぐって、それをテーマにするのかしないのか、するならどういう仕方でか、といった様なことを話し合っているのですが ああなるほど、こういう「 断絶 」も存在するのかと思ったのは(全員のいない、稽古後の雑談のなかで生じた話で恐縮ですが)、 「死は難しいんで生(きる)にしませんか」という提案を私ともう一人の俳優がしたのですが、演出家から「生きるだとポジティブなイメージが強すぎるから」と難色を示された、ということです。 私は生きる(という語)をそんなにポジティブには捉えておらず、すくなくともアンビヴァレントであり、それゆえに強く考えるべき事柄としているのですが、「生命の活力」みたいなイメージでばかり捉える人も多いようです。なるほど。 完全に私の話で恐縮ですが、そういえば高校3年の時の舞台系発表会(卒業制作みたいなも