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「そらのしずく」、あるいはエチュードについて

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12/21 19:00−21:00 渡辺健一郎 上演不可能な戯曲、それをなんとか舞台化してしまう その営み自体が面白い、みたいなところがあります。演劇は。 例えばまどみちおの詩、それ自体では意味をなさない文章を、いかにして舞台化するか? (前回に引き続き、これを発表するところから始まりました) 意味をなさない文から意味をひねり出すか、単語のイメージからか、音の響きからか。 無意味なものをミメーシスするというのはどういうことか。試行錯誤しました。 人によって好みや傾向は出るでしょう、しかし手数はおそらく多い方が良い。 次に同じ戯曲をやるとなった時に、全く違うアプローチができる方が良い。 終わった後も、色々考えてみています…他に何が可能だったのか。 例えば私はどうしても(無意味な表現は)抽象化の方向で考えちゃうけど、具体化が可能か、どうか。など。 後半。 怒る演技はいかにして可能か。を模索。 一方向へ進みたい人と、それを無言で無感情ではばむ人、のワーク。 進みたいのに妨げられる。しかも相手は人間味がないので情に訴えたり事情を説明したりしても、機械的にはねかえされるというシチュエーション。 講師Tはこういう理不尽な状況から、俳優の内側に怒りがたまってくるはずだ、と考えたようですが、あんまり上手くいかなかった。 これを見ながら、「エチュード」って何だろう? と考えていました。 エチュードというのは、想像力(の訓練)に関わるものかもしれない。 人がどういうことに怒りを覚えるのか、怒りってどういう感情か、といったことを考えられるような。 怒りをめぐって、自分とは違うアプローチを持っている人のエチュードを見て 自らの演技に役立てる、 ということはありえそう。 ただ、最初の「〜すれば怒りがたまってくるはずだ」という前提は、もしかしたら人によっては当てはまらないかもしれない。 そうだとすると、そりゃ上手くはいかない。 自分の身体感覚にはないものを演じようとすれば、それは最初から想像力が必要になってくる。 想像力を養うためのワークで、想像力が必要になると、本末転倒なのかもしれない。 ではどうすれば怒れるのか?どうすれば想像力をフル稼働させられるのか? みたいなことは考える必要がありそうです。ワーク自体は上手くいかなかったけど、この失敗から考えられることは多かった。

自分から遠いものを演じることについて

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  12月14日 19:00-21:00   演じるときに、「自分からの距離」を測って演技を作っていくタイプの俳優と 「自分」なんか度外視で、役に直接アプローチするタイプの俳優とがいます。 この登場人物は自分とはこう違うな、どういう思いでこんな台詞を言うんだろう、といった仕方で演技を模索するのと、 とにかく台本に書かれていることのみを忠実に演じようとするのと。 さて今回はまず、2人組で向かい合って相手の名前をただ呼び合うだけ、というワークをしました。 1人は「好き」の感情を、もう1人は「嫌い」の感情を乗せて、ただ呼び合う。 演劇の現場ではよく行われるワークですが、発見は多い。 この時、「嫌い」を表出するのが本当に苦手な(出来ればやりたくない)人がいました。 実際の相手の名前を呼び合うから、ということもあるかもしれませんが、相手のことを嫌いじゃないのに、その感情を乗せられない、乗せたくない。先ほどの区分で言うなら、前者のタイプの俳優ですね。 逆に、そういう指示が出ているのだから、怒るのもけなすのも何でもやるよ、という人もいました。後者のタイプです。 この区分と正確に対応はしていない(どういう意味で?検討してみると面白いかもしれない)と思いますが、演技を「没入なりきり型」と「典型表現型」とに区分した論文を、前回から今回にかけてみんなで読んで、検討しました。 (※先週もURL載せましたが、念のためもう一度) https://ouj.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=7548&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17 哲学者が演技について論じた数少ない文章として、ディドロの『俳優のパラドクス』は非常に有名です(『逆説・俳優について』という邦訳本がありますが、かなり古い1954年のものしかない!勿論絶版…新訳が待たれます)。 ここで言われている考え方は、自分たち、俳優からするとどう見えるのか。といったことを各々に喋り、吟味しました。 「完全に没入した演技する人なんかおらんやろ

稽古の思想

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  12月7日 19:00-21:00    担当:渡辺健一郎 表現に正解はないと一般的に言われますが、 今回は「正解」が目の前に存在するワークを行いました。 2人組になって、「コロナ禍に関連して嫌だと感じた/感じていること」を互いにインタビューし合う。 その後、相手のインタビュー内容をトレースして発表するというもの。私も参加しました。 相手の話した〈内容〉はもちろん、声色、口癖、手/足やその他身体の機微など、意識しなければならないことは無数にあるので、極めて難しい。 厄介なのは、実際のモデルを直前に目にしているので、表現すべき「正解」が確かに存在しているということです。 練習の時間などとらず、ほぼ即興で演じなければならないので、どうしても完璧には再現できない…というよりも、本当に下手になってしまう。演じながらなんて自分は下手なんだと思ってしまう。私などは特に。 『ハムレット』のマクベスを演じてください、というオーダーだったらある程度好き勝手やれますが、今回はそういうわけにもいかない。 講師の伊藤さんは、細かいところよりも、大掴みで雰囲気を再現して欲しい様子でしたが、「正解」という縛りのために、少なくとも私の心はかなり縮こまっていました。 このワークはしかし、演技の本質の一つにアプローチしているものだとも思います。 戯曲の上に表現されている「マクベス」であっても、情報量が少ないだけで、戯曲という体裁をとって一つの「正解」を示している。 そして俳優は様々な仕方で、ありうべき正解に向かっていくわけです(ゆえに、先ほど書いた「ある程度好き勝手にやれる」というのは、正解を無視した、怠慢だと言えるかもしれません)。 日本の演劇史の文脈で言うと、この「正解」は「型」と呼ばれています。世阿弥の時代から。 型をとにかく反復して身につけていくこと。それこそが古(いにしえ)を稽(かんが)える「稽古」なのであると。 では、最終的にはみんな同じ演技をするようになるのが理想かといえば、そうではない。 型を究極まで習得すると、どこかでその型から遊離する瞬間が訪れる、その人にしかできない表現がうまれてくるーーと世阿弥は言っています、し、感覚的には分かることです。 西洋哲学の歴史の中でも、この「型」の問題を扱った人がいました。 最後に、それについての論文をみんなで少しだけ読んで、

演技の上達、? ??

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 11月30日 19:00-21:00  渡辺健一郎 まだ稽古再開して1ヶ月、お互いの「演技観」やら、どういう演技をしたいのかといった「欲望」をこすりあわせる時期、といった感じです。 今日のメインテキストは「まっかな秋」の歌/詞。 まずは二人組で、3〜7歳くらいを対象にした短い上演作品を、当の歌をモチーフにして創作せよというお題。 ついで、「歌詞に込められた〈発見〉の感動を強調して」朗読せよというお題。 幼児を相手にする、というのは、恐らく相手を「子供扱いせよ」ということではない。「子供騙し」をやるんでも、何なら「子供向け」の作品を創る、ということでもない。 また、「発見の感動」を表現するというのは、「感動している人」を演じることではない。少なくともそれだけではない。 じゃあ何なの!?と聞かれても分からず、それを発見するために演劇をやっている、みたいなところがあります、私には。 稽古場というのは、「分からん」が尊重され(う)る、現代では稀有な場だと思います。ただ、互いにどんどん分かっていくこと、みんなでどんどん分かるを積み重ねていくこと、(それも重要ですが)そればかりが歓迎される稽古場も増えてきたのかなという印象もあります。 もっと分からなくなりたい。なんだかなにか、分かってしまうことへの違和感を保ち続けたい。 あした帰ったでは、もう少しわからなくいられそうで、とても良かった。