投稿

4月, 2023の投稿を表示しています

集中がある、どこかに、とすれば

イメージ
 4/25 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室 前回流した瞑想のテキスト、もともとは英語の文章のようで、原文を見せてもらったのですが、これが大変面白かった。 英語というか西洋の文章はたいへん文法にうるさく、主語と動詞(述語)は必要不可欠なんですが、瞑想のテキストには動詞がない文が多い。 例えば 'Finding a position of stability and poise(...).' 。 直訳すれば、「安定と落ち着きのポジション(姿勢、体勢)を探すこと」。 普通だと例えば命令形Findを使ったりすることが考えられる(「ポジションを 探してください 」といったように)のですが、この文章では動名詞Finding(「探す こと 」)があるのみで、動詞がありません。 日本語だと「〜すること。」という文章にそこまで違和感ないかもしれませんが、英語だと結構異様です。 勝手な想像ですが(しかし完全に当て推量というわけでもありませんが)、瞑想というのは自分とその他のものの境界を曖昧にする作業なのであるから、主/述という区分は邪魔になるのではないか。 動名詞で表現するしかないのではないか。 もしかしたらその意味で、主述を結構適当に使(ってしま)える日本語というのは、瞑想に適した言語なのかもしれません。 いずれにしてもしかし、瞑想のテキストを「発話する存在」はどうしたって必要です。ただ「この人が喋っている」という意識が明確になってしまうと、瞑想からは遠ざかることになります。 声は聞こえているし、意味は把握できるけど、「誰」が言ってるとか、聞いてるのは「自分」であるとか、そういう意識から遠ざかること。 そのためには、どの様な文章で、どの様な発話の仕方をすれば良いのか。 おそらく「集中状態」を生み出すための方途を考えなければならない。 寝ようと思いすぎると寝られない、のと同じように「集中しようと思いすぎると集中できない」、集中しようと思わないしかたで集中を目指す? (マニアックな話をすると、最近哲学者の國分功一郎が 『目的への抵抗』 という本を出しました。「目的」ばかりが取り沙汰されるこの時代に、脱目的的な生を考えようとするものです。問題意識は共有しているのですが、しかし彼もまた「脱目的を目的として」本を書いたり、講話をしているのです。哲学も演劇も、同じよ

光陰矢の如し

イメージ
4/16 13:00-17:00 高槻ゆう・あいセンター  会議室1 「瞑想」しました。英語だとmeditationなんですね。「省察」などとも訳したりしますが、イメージは全然違いますね。 インストラクター?の語りにあわせて、姿勢を整え、呼吸を整え、深く深くどこかに入っていくような。 しかし私は、姿勢を整える段階で腰が相当に痛くなってしまい、継続できなかった。瞑想には筋力(背筋)がいるのだろうか。あるいは、違和感のない身体の状態を探れるような感覚?技術?が要るのだろうか。色々試してみたい。 おやあと気づけばあと一ヶ月半。本当に何か形になるんだろうかと思える進行スピードですが、講師を信じるしかない。参加者は不安そうだったりそうでもなかったり。瞑想の超・スロー感と創作の超・急ぎ足とを並列させたい。 いずれにしてもしかし日々新たな要素が追加されていきます。今回はダンス。 綺麗に揃える、動きを洗練させる、という以前に基本的な動作が難しい。 今回使った建物の螺旋階段に、避難用スロープがついていました。常時オープン状態。しかし滑ると手も服も真っ白になるというトラップ。 忙しいという字は、心を亡くすと書くのす。 スピード感を自在に操れるくらいの余裕と度量と技量が欲しい(今はない、あまり)。

強制、共生

イメージ
 4/11 19:00-21:30 ゆう・あいセンター 研修室 前回 終わった後に、アランの『幸福論』をなんの気なしにひっぱりだしたんですが、93の章のタイトルが大変面白かったため( 目次 )、俳優それぞれタイトルが気になった章を指定して、それを読む、ということをやりました。 アランは「オプティミスト(楽観主義)」だと周りから言われているそうです(自分でそう書いている)。かなりの意訳ですが、だいたいのことは気の持ちようだと言っているので、なるほど楽観的だなとも思います。しかし悟りを開け、とも言われているような気にもなるので、決して楽なことを言わんとしているのではないな、とも。 とはいえ、何かオカルティックな意味での悟りではなく、かなり具体的に、物質的な側面からも考えた「悟り的なこと」を書いてくれているので、「幸福」の(文字通り)手がかりにはなるのかもしれない。 現代の演劇では、俳優は必ずしも「役(登場人物)」を演じるわけではありません。アランの文章を読むにしても、それを読む人は必ずしもアラン役を演じなくて良い。 では一体何をしているのか? 何をすれば良いのか?  役を演じるのではないにしても、人前でテクストを読み、発話する場合、何らかの「役割」は担っています。観客以外の相手を想定して「話しかける」にせよ、客にテキストの内容を「届ける」にせよ、空間に言葉を「響かせる」にせよ、言葉を「発する」以上、自分以外の何ものかとは何らかの関係を持たなければなりません。 特に何も考えずただ「読む」というのも一つの考え方だろうとは思いますが、世界との他の関係性の仕方を考えたうえで「ただ読む」に戻ってくる方が、強度は増すだろうなという気がします。 今回は、1人の参加者の大きな課題に解決?革新?の希望が見えて、大変良かった。 きっと、世界との関係の仕方が大きく変わっていくんだろうと思います。感動的でした。 なおブログのタイトルは、また別の参加者に与えられたテクストより。これも大変面白かったのでじっくり考えたい。『幸福論』より、発話するのが大変難しそうでしたが…

「あなたは今幸せですか」?

イメージ
 4/4 19:00-21:30 城内公民館 多目的室  と、言われたわけではないのですが、そういえば数日前に某宗教団体の方2人が家に来て、ちょっと忙しいのでと帰ってもらったのですが、そこで出版している書籍をもらうだけもらいました。地獄に落ちない唯一の方法は信仰だ、という箇所に付箋が貼ってありました。 もう少し話してみれば良かったなとも思っている。 色々試行錯誤しながらシーンを創作する過程で、まさにタイトルのこの台詞が登場しました。なんで胡散臭く感じるんでしょうね。いやしかし、あまりに胡散臭いということがすでに共通了解になっているから、もはや何らかの勧誘の際に「幸せですか」なんてもう聞かないのかな。どうなのかな。 そういえばアランという哲学者が『幸福論』を書いていたなとひっぱり出してみて、とりあえず93の命題のうちとりあえず「14 悲劇」の項目だけ読んだんですが、悲劇的なシーン、絶望的なイメージ、死者について生存者が何を思うか、といったことのみが描かれていました。 ああ、幸福について考えるときには、不幸についてもまた考えなければならないから苦しいのか。な。 いずれにせよ、他人と「幸せ」についての会話をするというのは、何か異常なことなんだな、ということがどうやら分かってきました。美味しいものを一緒に食べて「幸せ〜!」という溢れてきた気持ちを共有することはあれど、幸せ「について」語ることの怪しさ、危うさ。 最後に、俳優から出てきた問いをみんなで考える、という仕方で、「演じるとはどういうことか」、といったことについて、 前にも稽古場に遊びにきてくれた ゲストの俳優と共に、話しました。 最近福田恆存『人間・この劇的なるもの』を読み返していたんですが、人間は別に自由なんか求めていないんだ、求めているのは必然性だけだ、必然的な人生を送るためには俳優であることが必要なんだ、物語が最終的にたどる運命はすでに知っているけれども、それでもその運命を生き抜いていくという俳優であると考えるべきなんだ…といった様なことが書かれていました。 同意するところとそうでないところがあります。ありました。 みんなそれぞれに苦しみながら創作に取り組んでいます。創作を通じて色々考えてしまい、苦しみが喚起されたりしている様子です。必ずしもネガティブなだけではない苦しみ、ではある様ですが、いずれにしても何に苦