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高速道路は悲劇的ですか、喜劇的ですか

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3/29 19:00-21:00 担当:渡辺健一郎 タイトルは、田中未知『質問』より。 稽古中に私が投げかけられた質問です。考えれば考えるほど答えが出ず、かなりの引っかかりがありました。やられた。 私が最初にハマった哲学者のベルクソンに、「問いは提出された時点で解決されている」 といったような意味の言葉があります(確か『思想と動くもの』)。 問題は解決するよりも、提出する方が難しいし重要で、それこそが哲学者の仕事なのだということです。模範解答が一つに決まるなどとはベルクソンは思っていませんが、様々な議論を生むという意味で、優れた「問い」は提起されたその瞬間にもっとも大事な役目を終えるのです。 …みたいなことを思い出しながら、最近はワークに参加していました。 ただここでいう「問い」と、「質問」はまったく性質の違うものだなと思い至りました。 書いていて当たり前だなとも思いましたが… 質問は、まず「解決」とは関係がない。 あるいはまたそれは、不/特定の誰かへと「投げかける」ものである。 哲学者が提起するような問いは、みんながそれについて様々に考えられるものだけど、みんなの考えは互いに関係しあう。比較検討したり、組み合わせたりすることで、より良い考えがどういうものか、ということを考えることができる。 質問は、みんながそれについて様々に考えられるものだけど、それぞれの回答はそれぞれでしかない。人の回答を聞いて、自分の回答が変わるということは、基本的にはない。 ただ質問の理解の仕方が変わる、ということはあるかもしれない。「あの人あんなに長く答えてる!そんな深い質問だったのか」とか。 雑駁に書きますが、「問い」は今後どうすべきか、どう考えていくべきかと、未来に関わるのではないか。 逆に「質問」は、「これまでの"あなた"はどうでしたか」と、過去に関わるのかもしれない、と思いました。 「眠れないとき何を考えますか」という質問は、厳密には「これまで眠れないときは何を考えてきましたか」という意味でしょう。 「○○についてどう考えますか」という質問は現在(いまのあなた)に関わるようにも見えますが、これまでどういうパーソナリティを築いてきて、どう考えてきたかの吐露にほぼ等しい。 質問によって、それまでに築いてきた"わたし"が確認される。 「質問」ではし

トーンの意味

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2022/3/22 13:00-17:00 担当:渡辺 なんとも旅行に来たかのような写真ですね、 高槻ですが。 言葉、あるいはその発話、の繊細さを改めて感じています。 言葉の「意味」の様なものばかりが問題にされますが、それをどう発するかの方が重要ですね、単純にいえば「言い方」の問題。ちょっとカッコつけて言えば「トーン(音の調子)」の問題。 演劇は意味よりもトーン自体を表現していると言えましょう、誰がどの様に言っても同じなら、俳優なんて必要ないわけですからね。トーン自体が意味なのだとすら言えるかもしれません。 芸人のラジオでの発言が度々炎上したりしますが、トーンを無視して文字起こししたら、そりゃそうなるよなといった感じもします。芸人もまた、トーン自体を操る仕事なのでしょうから。 同時に、どう聞くか、も大きな問題なのだというのは新たな発見でした。 例えば目をつぶって聞くか、どうか、で全く意味が変わってくる。受け止め方が変わってくる。 演劇は、客に「聞き方」や「聞くときの姿勢」みたいなものをもディレクションします。演じる内容、演じ方と同じくらい、客にどういうあり方を求めるかが重要ですね。 同じ言葉でも、意味は無限に変わりうる、そのことは常に念頭においていたい。

決めることは厄介だな

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3/15 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺健一郎 5月末の〈上演〉に向けて、話し合いをしました。 形式について、内容について。 今回の稽古場は、コロナ禍のあおりも受けて、 開始が何度も延期されたり、長めの中断があったり、 ただ集まる、ことにすらかなりの困難を伴いました。 zoomなど、オンラインで会議ができるようになって(「オンライン会議」が一般名詞化して) 便利になった側面もありますが、みんなどこかで大なり小なり違和感は覚えていることでしょう。 「直に集まることは何か」を考える場が必要で、その筆頭に演劇の場が上がってくる、とは言えるでしょう。 そういう名目で「あした帰った」第二期はスタートしたのでした、そういえば。 開始が延期されたこともあって、当初予定していた劇場で上演することが叶わなくなり、 「普通の」上演形態ではどうやら上手くいかない、ということになりました。 この状況で、この参加者たちで、高槻という場で、どういうことが可能なのか。 どういうことをしたら面白いだろうか。考えています。 当然各々に思っていることは異なるので、 決める、というのは大変だなと、毎回思います。 演出のことをdirectionなどと言ったりもします。方向づけ。 あるいはもう少しマニアックな話になりますが、フランス語のsensという語が、「方向」「感覚」「意味」を同時に表します。 方向づけがそのまま意味づけになるし、どういう感覚が生じるかもそこで決まるわけです。 一つの事柄に、複数の感じ方があると知ってしまっているわれわれは、そこに一つの方向を、一つの意味を付与していくことに抵抗を覚えたりもします。 それでもなお、上演のためには、どこかの方向に絞っていかなければならない。 なんと苦しい作業でしょうか。他の方向への未練を断たねばならないのですから。 決め方を決めるという作業が、どうしても必要になると思います。 それでも涙を飲んで、どこかへ。…あるいは決めない、という地点にとどまることができるのか、どうか?

変化が可視化される

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 3/8 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺 稽古場に、初めてゲストが来てくれました。俳優の大石英史さん。 いつもと違うひと、もの、ことが侵入してくると、やはり場が一変します。 まず確固たる場があって、そこにいる人たちが「ひも」や「戯曲」や「考え方」を自由に扱うのではない。 それらはわれわれにとってdisponible(好き勝手利用可能)なのではなく、それらのものたちにふりまわされることで、はじめて遊びは生じる。 大石さんの存在感、はまさにそういう意味での遊びを可能にしてくれたように思います。 様々な意味で、私たちは変化に面白さを見出します。もしかしたら単なる生、は安定を求めているのかもしれない。それでもなにかが変わる瞬間が、変わっていく実感が、生を豊かにすると思えてしまいます。やはり。 とはいえ「変化」、と一口に言ってもなかなか難しい。俳優が舞台上に立ったら、その人が何かを起こすはずだ、何かが起きるはずだ、と期待するでしょう。このとき「10分立ちつくすだけ」というパフォーマンスがなされた場合、それはまた大きな変化、事件になり得ます。 どこにドラマチックな変化の種が落ちているのかはそう簡単にはわからない。やってみないとわからない。やってみてもわからない、かもしれない。いずれにせよ厄介なことに、「変化を起こそう」という意志や意図は、ドラマから遠ざかったりする場合が多い… 演出家の中には演劇を自らの世界を体現するためのメディアだと思っている人が少なからずいて、そういう人たちは多くの場合俳優をdisponibleなものだと考えてしまっています。 世界に遍在する(はずの)変化、それをいかに汲み取り、戯れるか。演劇の肝の一つがここにありそうですが、かなり粘り強い思考や実践が必要で、多くの人は(例えば上述のような演出家は)それに耐えられず楽な手段を選んでしまいがちです。 でもせっかく演劇なのだから、と思わないではいられません。

別様に、それでもなお

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3/1 19:00-21:00 担当:渡辺  愛をめぐるいくつかの言葉を読み、話しました。 例えば『夕鶴』。高校時代には、欲に溺れた哀れな男が愛を足蹴にして絶望に至る、くらいの凡庸な話、みたいな感想しか持っていませんでした。 それ以来に読みましたが、全然違った。断然辛かった。 与ひょうを「欲に溺れた」などという簡単な言葉では形容できないし、つうがこんなに悲痛な声をあげていたなんて全く覚えていなかった。 悲痛さの演技はいかに可能か。「〈悲痛さ〉を表現しよう」と思うとやはり上手くいかない。 では、悲痛な状態を作るためには?自らを悲痛な状態にするためには?  何度も似たような問いに戻ってきますが、俳優が挑戦しなければならないのはいつもこの問題です。単純ですがもっとも大きい謎。 最後に講師から「演劇に何ができるのか」と問いが投げかけられました。 私は昔から「最悪にいたらないため」に演劇を考えてきました。 最悪は、一度起きてしまうとちょっとやそっとでどうにかなるものでもない。 それを中断するためには、別の大きな力がどうしても必要になってしまう。 既に起きてしまった最悪には祈りを捧げつつ、 同時に次の最悪にいたらないために、現実世界 で流れているのとは別のリズムを生み出すこと。 黙々と、あるいは朗々と。