記憶が表れるとき

2/28 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室 渡辺健一郎

※先週、講師の体調不良のためお休みでした。のため、2週間ぶり。2月も終わりの日、だいぶ暖かった様に感じました。

第2期の頃、「質問」の形式に関して面白がっていた時期があるのですが、「思い出」なるものがどの様に「表」にあらわれてくるのか、この形を考えるのはどうやらかなり面白そうだと思い始めました。

「思い出づくり」をめぐって、講師から参加者たちに向けていくつかのお題が、宿題として出されました。「あなたが死ぬ時に思い出すのは、どんな思い出ですか?」云々。
もうこの質問から大変です。分かるわけないことを答えさせられるのですから。
分かるわけないことを考えるのはしかし、頭の血のめぐりが良くなる感じがして良い。

さて思い出が表に出てくるときというのは。例えば「走馬灯」みたいに、印象的だった何ごとかが洪水のようにフラッシュバックしてくるとか。写真を媒介にして、友人などと一緒におしゃべりしながら、少しずつピースを埋める様に思い出していく(そんなことあったっけ、あああのときあの店でご飯食べて、じゃあそのあと海行ったんだ、あれそうだっけ?)、とか。

高校生の時(だったかもはや定かではないけど)に亡くなった祖母、すでにかなり重度の認知症でしたが、毎日アルバムを見ていました。当時は、正直に言えば、毎日同じことをして何の「意味」があるんだろうと少しあわれむ様な気持ちで見ていたのですが、今改めて考えてみると、何か尊いような、しかしどこか苦しいような、そんな気がします。
電車の中で、ずっとインスタの写真を一覧で見ている人もかなり多くなりましたね。自分のだったり、他人のだったり。祖母のことと、少し重なるような、しかしやはり違うような。

ああそういえば小説をほとんど読んでいなかった(あんまり楽しく読めなかった)学生時代に、『失われた時を求めて』がすっと身体に入ってきたのを思い出しました。身体と記憶との結びつき、あるいは結びつき方、を延々と書いていましたね。

思い出の表し方として参加者から「交換日記」が出てきたのに何だか何か、ハッとしてしまった。
自らの記憶を、特定の誰かに向けて書くという異質さ。しかしこの異質なことを、われわれは今回の公演でやろうとしているのかもしれない。
いや違うか? 日記は、書いているときは「記憶を書く」のではないか。書いてしまったもの、書かれてしまったものが、次第に記憶と呼ばれるようになるのか…?

そういえば「毎日日記を書く」という実践を2年ほど続けている、福尾匠という哲学研究者/批評家がいます。日記を書くことについて、かなり色々考え、書いている人で、厄介な哲学の話をしているときもあれば、日常から出発してフラフラしたりもしていて、面白いかもしれない。ひとまずシェア。
「日記を書く」で下記サイト内の記事を検索したら示唆的な文章がいっぱい見つかった(日記を検索するということの異質さ)。




コメント

  1. https://tfukuo.com/2023/02/13/312/
    この辺なんかは直接的に「日記を書く」という技術について。

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