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2月, 2022の投稿を表示しています

ドラマとしての場

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 2/23 13:00-17:00 drama、の語源がギリシャ語のdranであり「行為」を意味する、というのは演劇学をやると基礎として最初に学びますが そういう意味でのドラマ、は日常のあちこちに散見される。あるいは、そう見ようと思えば全てを「ドラマ」として考えることができる。 日常とは異なる事態に遭遇すると、ドラマはいっそうわかりやすく顕現する。例えば今思い出したのは、大規模停電が起きて電車が止まり、会社に行けないサラリーマンが駅にたくさんたまっていた時。みんな非常事態を告げるために電話をしたり、開き直ってベンチでコーヒーを飲んでいたり。 悲壮な面持ちの人もいたのでアレですが、日常のリズムが崩されるというのはなんとドラマティックか、と思ってしまいました。 私は昔から、坂道を見るとそこについドラマを感じてしまう。 坂道にボールを置くと、勝手に転がっていくことを私たちは知っています。 重力や摩擦力、世界にうごめく無数の力の錯綜は、なんとなく了解されている。 坂道は、モノをつきうごかす力を備えている。そこにドラマ性を見てとることができる。 アグレッシブな子どもは坂道、あるいは身の回りの高低差を上手くつかってさまざまに遊びを開発します。 そこではただ歩く(それ自体にもドラマはある、と私は思っていますが)よりも、分かりやすく緊張感を醸成することができる。 多分そういうことを、無意識のうちに感じているんじゃないかと思います。 ……そしておそらく、物理的な高低差だけではなく、観念のレベルの高低差などにもドラマってあるんだろうな、などと思いましたが、思っただけです思いつきです。

見えないものを見る、あるいは

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 2/15 19:00-21:00 渡辺 、見えているはずのものに光を当てることについて。 最近何週か連続して、目をつぶっていると開けている人との間のコミュニケーション、を取り扱っているわけですが、 改めて目で見(えて(しまって)い)ることの強烈さを確認している感じがあります。 よく西洋近代を視覚中心主義などと言ったりします。それは対象を分析的な眼差しで見る、ことが特権化された世界観を表している。 例えばマーティン・ジェイ 『うつむく眼』 。 しかし視覚なるものによって。分析などという言葉ではおさまらないほどに、われわれはあまりに多くのものに触れてしまっている。 視覚のおぞましさ。 我々は、対象の「感じ」をおおむね目からつかんでいる。これを言語化しようとしてもなかなか上手くいかない。 見ているのは、おそらく対象そのものだけではなく、その背後に存在する何者か(たち)をも同時に、多くの場合無意識に、把握していることでしょう。 背後から切り離された、「対象そのもの」に触れることはできない、はず。 でもそんな余剰物に日常的に気を配っていたら生活できませんから、基本的にはそれらを捨象して生きていますね。 前回は「視覚に頼ってしまっている」けど他の感覚も〜、という話をしましたが、我々はこれほど信頼を置いている視覚のことについてさえ、おそらく殆ど気を配ることができていない、気がしてきた。あるいは、当たり前すぎて気を配るべきものと認識していない。 なんて鈍感、なんて蒙昧。そんなことで「演技」なんかできるはずもないわ! が、時に盲目故に光が見えることもある、ということは経験的に知っている、気がする。光の条件は盲目かもしれない。 「安部公房スタジオ」で、安部公房が俳優たちとやっていたとされるワークのことを思い出しました。一人が写真を見て、その画の全体像を言葉だけで説明する、といったようなもの。 田中邦衛が説明が異常に上手かったんだとか。思い出しただけです。

いまなお可能な感覚、例えば演劇に、?

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 2/11 13:00-17:00 渡辺健一郎 知っている人には常識でしょうが、演劇=劇場theaterの「thea」は「観る 」ことを意味します。 劇場はつまり、「観る場所」ということ。 でもそれって本当に? という疑いから、現代演劇は出発しています。 人間は、あまりにも視覚に頼って生きている。 でも目の前のものが食べられるのかどうか、といったことは臭いや手触りで判断しなければならない。 自らの命を脅かすものの接近は、音や気配で察知しなければならない。本当は、恐らく。 それができなくなっているから、消費期限を数字で示したり、街中に監視カメラを設置したりしているわけです。 しかし視覚以外の感覚も鍛えて伸ばさねば、という単純な話でもない。 情報過多の時代には、視覚情報を整理することでどうしても精一杯になってしまい ゆっくりじっくり手触りを堪能?している暇なんかないでしょう。 それでもなお、だからこそ、日常生活とは別のリズムで、街中の音やにおいに思いをはせる、そういう時間を作るのが演劇の一つの役目、なのかもしれません。 前々回( https://ashitakaetta.blogspot.com/2022/02/blog-post.html ) に引き続き、二人組になって片方が目をつぶり片方が手を引くワークをやりました。 今回はかなりの長丁場。エレベーターに乗ったりも。 日中で人通りが多かったのもあって、「感覚」をめぐる発見が、前よりもかなり多かった、気がしました。 身体で浴びる日光の強さ、密着の安心感、自転車の車輪の荒々しさ、云々。無数の事柄が、われわれの安心と不安のタネになっている。 目をつぶっている人に安心感を持ってもらうためには、「この人になら身をゆだねても大丈夫だ」と思える信頼感のようなものが大事そう。 信頼感を生むのは、意味として把握できる情報の多さや正確さ…よりも何か他の要因がありそうです。名指すことは難しいけど、もう少し探ってみたい。 今日はいつもより楽しかったので写真多めに。

期待を忌避する肌理と機微

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2/8 19:00-21:00 渡辺健一郎 日中はほのかに暖かさを感じるようになりましたが、夜はまだ完全防寒が要りますね。そして今日は少しの雨。 接触、コロナ禍ではもっとも悪とすら言いうるこの行為、しかしそれは演劇の生命線の一つでもあります。 接触、しかしそれは全容を「把握」することが不可能なほどの底なしの広がりを持っています。 我々が壁に触れるとき、何らかの「手触り」を感得するでしょう。 しかし手を広げて手のひらを壁に押し付けるとき、本当は薬指の腹も、親指の付け根も、手首の辺りも、同時に触れているはずです。 そして壁のほうも本当は一様じゃない。削れていたり、出っぱっていたり、様々な部分があるはずです。 本当は一言ではあらわせないこの感覚を、我々は「壁」に「手」で「触れる」と言ってしまうわけです。 フランス語のsensという語は、「意味」とか「感覚」、あるいは「方向」などといった意味を同時に持っています。 接触に際して、我々は無限の感覚に一つの名前をつける。 感覚にある種の方向づけをすることで、意味が生まれてくることになるのです。善かれ悪しかれ。 ただ演劇は、演劇的接触は、日常的なコミュニケーションのなかで期待されている意味=感覚=方向を逸脱させることがある。 そういう時に何か感動してしまうのでしょうか、ね。そういうものを探していたいです、ね。 前半はコンタクト・インプロヴィゼーションのようなことをやりました。 二人組で、背中同士を接触させる。相手の背中を感じながら、互いに身を預けあい、動的接触の中にダンスを見つける。 壁と手を触れ合わせるだけでも本当は無限の意味を持ちうるのだから、これはもう大変です。 それだけに一朝一夕では「うまくいく」感じがありませんが、通るべき道だなとも感じられる。 演劇が、俳優が触れるのは、何ものかに物理的に、というだけではない。 テクストを読む時にも何らかの感触、を覚える。 インタビュイーが「びっくりしちゃった」と発言した、のを採録したテクスト、をどう読めば良いのか。 インタビュアーとの関係はどうであるのか、「びっくりした」当時の感覚のままに言うのか、当時を客観的に振り返って言うのか。 あるいはまた別の次元で言うなら、インタビュイーの存在とは無関係にそのテクストを読むことも可能でしょう。 なんかあれですね、やっぱり演劇って面白いんじゃない

演劇関係、力関係

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 2/1 19:00-21:00 現代劇場205 担当:渡辺健一郎 ひもって良いですよね、確かに「ある」けど、かなり可変。 演劇が、単に二人(以上)の人間の関係を描くのではなく、関係の「間」や「外」に第三項をも介在させているものだとすれば その原初的な一つのモノ、が、ひもだと言えるかもしれません。言い過ぎか。でもひもだけで数日遊べますね、恐らくね。 二人三脚、三人四脚、このどちらが主導しているのかわからない感じ、は色々考えるところがありそうです。 恐らく相手にあわせすぎても、先導しようとしすぎても上手くいかない。 なんなら合体して「一つのモノ」になることができればそれが1番良いのでしょうが、各々の「意思」や身体的な個性がそれを邪魔する。 意外と奥深そう。 私も参加させられたので写真撮れていないですが、二人でひもの両端をもち、片方が目を瞑り、もう一人が先導するというスタイルでもしばらく遊びました。 慣れてきたのち、近くの神社まで行って帰ってくる(!)ということもやりました。 発見は多い。例えば。 先導する側、ケアする側は、「至れり尽くせり」しすぎない方が良いのかもしれない。 目の見えない方は、あんまり情報が多すぎても処理しきれない。 あるいは例えば言葉で「次、溝があります」と言ったところで、どんな深さや幅の溝なのかは把握しえない。 「正確に」伝えようと思ったら相当に言葉を尽くさなければなりません。 目に見えない方の足元の感覚を「ある程度」信じて多少無責任、くらいの方が良いのかもしれない。 (「ある程度」というところがやはりポイントにはなるでしょうが…) もしくは、「しばらく障害物なく安全です」といった様な、おおまかな情報の方が助かるかもしれない。 距離の取り方、力のかけかた、せいぜい90分くらいの短いワークでしたが、いろんな技術を見出すことができました。楽しい。 ちょっと今回の稽古内容とは外れますが、そういえばブライアン・ウェイが『ドラマによる表現教育』で「目の見えない人に共感するには、どんな知識を身につけるよりも、目を隠して体感した方が良いんだ(だから演劇的体験は良いのだ)」みたいなことを言っていた気がします。 対して伊藤亜紗は『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で「少し目を瞑ったくらいじゃ目の見えない人の<世界>は体感できない」といったことを書いていました。