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私がとちった話

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 11/23 19:00- 渡辺健一郎 色々な不幸と確認ミスが重なり、稽古場が取れていないことが判明しました。 仕方ないので平謝りして、高槻現代劇場近くの私の家に来てもらって、色々話をしたりするなど。 弁明の余地はないということは強調した上で、しかしこうやってまったり喋る時間も良いですね、とか思ったりして… みんなの演劇観とか、遍歴とか、演劇における自由の話とか、どういう演劇が好きかとか、じっくりまったりやりました。楽しかったです。 いや、あの、本当にすいませんでした。

表現<と>自由の場について

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 11月16日 19:00-21:00  高槻現代劇場205 話題の「明日のハナコ」をみんなで読みました。 事情を知らない方は、まずこちらへ(台本のダウンロードもできます)→  https://ashitanohanako1108.wixsite.com/home 上演に関わる営みをしているわれわれですから、表現の自由云々の話をする前に、実際に台本に触れてみようじゃあないかと。 関わったことのある人なら分かると思いますが、「高校演劇」というのは極めて特殊な場所です。 いや、地域によって、あるいは顧問の先生がどれだけ介入してくるか(作・演出を担うかどうか等)によって違うのかもしれませんが、 例えば単純に、高校演劇以外で上演を「競う」ことなんてほとんどないでしょう。 明確な評価の基準みたいなものは存在しませんが、制限時間は厳密に守らなければならない。 そのためか何なのか、高校演劇の特有の「ノリ」みたいなものが存在する。 必ずしもその「ノリ」に乗った上演が大会で評価されている訳ではありませんが、経験者と「高校演劇のノリ」について話をすると、大体共通認識がある。 「演劇」と「高校演劇」は別ものであるようにすら感じられる。 そしてとりわけ(仲間との演劇活動自体は非常に楽しかったものの)、大会で大人の様々な意図の錯綜に巻き込まれて非常に嫌な思いをした私などは、「高校演劇」を手放しで良いものだとは言いづらいところがある… 表現を自粛したり差し止めたりすることは、全くもってナンセンスだと思います、ので抗議すべきところはすべきでしょう。 同時に。その表現がどの様な場で、いかに産み出されているかということも考えなければならない。 今回の稽古では当の脚本を読むことで、それが試みようとしていたことと、自分たちの演劇観との異同を検討しました。「自分の演劇観」なんて明快には分かりませんが、各々に少し輪郭は見えた、かもしれません。 表現の自由を守るために署名した方々にも、是非一度台本を読んで、色々考えてもらいたいと思います。

偶然、居合わせたものから

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 11月9日 19-21時  最初に私事から書きますと、「演劇教育の時代」という論考で群像の新人評論賞をもらいまして、色んな人に報告するために文章が掲載されている群像12月号を持ち歩いていたのですが、講師の伊藤拓也さんも買ってくれていて、稽古場に同じ雑誌が2冊。 ああ、じゃあこっから「台本」になるものを探して読んでみたら良いじゃない、と雑誌をパラパラめくって、穂村弘の連載(「現代短歌ノート二冊目」#015 突っ込みを入れたくなる歌)がぱっと目についた。それを〈演じて〉みる、といった様なことをしました。 評論やエッセーを発話するとき、俳優は一体何を考えるのか。なるほど学校の国語の授業ではそういう「音読」を結構やった気もします。が、その後「演じる」対象として扱うことはあんまりなかったかも、そういえば。 語りかけるような語調で書かれた箇所は、やれる。が、論文調の固めの文体が織り交ぜられると、困惑してしまう(とりわけ穂村弘が、文体を自由に行ったり来たりする軽やかな文章を書くものだから!)。 一つ、「(芸人の)ラジオDJ風に」という制約をつけたら、だいぶやりやすくなったし、面白くなった。 エッセーの著者よりも、ラジオDJの方が、語りかける相手のイメージがある程度明確だからか?など。 今回行ったワークの内容それ自体、も面白いのですが、それ以上に、遊び方を発見し、洗練させていく仕方に私は惹かれています。 伊藤拓也さんは、いかに(演劇的に)遊ぶかを探し出すのが極めて上手い。嗅覚が鋭い。たまたま居合わせた状況の中にどんな面白いことを発見するか。演劇の勘所の一つだと思います。 いずれにせよ上述のワークは、内容としては全体の1/3程度で、後は目を開けている人とつぶっている人とのペアになり部屋の中を歩き回って踊るとか、過去に従事したことのある仕事の再現遊び(写真は「靴屋」)とか。楽しかった。

【行楽】なんしか、やまのぼり

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11月3日 10〜16時頃 竜王山→摂津峡 2年半前までは関東にいたものですから、関西圏の方の「なんしか」を聞くとなんかどきっとします。この日は2回聞いた。 都合のつく希望者で山に登ったことだけご報告。 「ハイキング」、の様なキラキライベントじゃないんです、 山登りマイスターにコースを選定してもらったらとんでもないことになった。 急勾配の途上も撮ればよかった、がそれどころじゃなかった。 疲れました、取り急ぎ。    

しれっとリスタート、ひとまずミニマルに

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11月2日 19-21時 高槻現代劇場205 いったんコロナ禍に読点が打たれて、各地に人が集まり出しました。 句切り、とまではいかないので厄介ですが、われわれもなんとか、なんとか再開しました。 7月に二回稽古ができたと思いきや、それから3ヶ月も空いてしまった。 公演日も2022年2月→5月に変更して心機一転、といった具合です。 個人的な話ですが、最近秘匿性、について思いを巡らせています。 公共性=公開性が重要視される時代に、閉じられた<異様な>活動をいかに継続するか。 あるいはまた、閉じながらもある種のcultに堕していかないためには? 演劇集団は多くの場合、外から見たらヤバい人たちの集まりだったりする。 でもクリエイションってそういうところからじゃない!ってやっぱり言いたい。完全オープンでは難しい、どうしても。 閉じられていること、を当たり前だと思ってしまう危うさ、危なさはどうしても存在する。ので、閉じつつも「どこかの」扉は開けておく、という態度は必要だろうな、という感覚でいます。 どこかの。これが依然として厄介な問いとして残っているわけですが… 再開だ、うおおお、というテンションにはならず、今回の稽古はゆったり、じっくり始まりました。 手。手からでした。まずは。 様々にできるものですね、手だけでもね。 手自体を擬人化したり、パントマイムをしたり、空気を作ったり。 細かい内容を書こうと思ったけど、長くなってしまったのでいったん秘匿(に)しておきます。 興味があったら見学に来てください、その扉は大体いつでも開いてます。多分。