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詩と詩の朗読について

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 8/30 19:00-21:30  城内公民館 多目的室  担当:渡辺健一郎 日中の陽射しはまだ厳しいですが、夜は大分涼しくなりました。 ようやく人間が活動して良い気候になったと感じられます。 夜、21時過ぎには雷雨もありましたが、じめじめむしむしといった感じはありませんでした。 前半は参加者が一人しかいなかったのでじっくり場を堪能しました。 次に詩の朗読モードへ。 読んでる最中に少しずつ人も増えていきました。 朗読と演技は違うか否か問題。が生じました。とりわけ私の中で。 伊藤比呂美『料理をする、詩を書く』を読みましたが、これが明らかに作者の人生や経験に則して書かれたもので、「伊藤役」として、独白のように「演じる」こともできたのだとは思います。 ただ文体のせいなのか、改行などの文章形式のせいなのか、やはり独白とは違う。気がする。 誰に向けて読んでいると考えれば良いのか。読み手はどういう存在であれば良いのか。勝手な一人語りを、聴衆が勝手に聴いているだけなのか。 「演劇」も十分おかしな表現形態ですが、「詩の朗読」は相当変です。なんなんだこれは一体。演劇だけでも分からないのに、さらに分からなくなるのは困るなぁ! なお、東日本大震災が軸となっていた詩だったのですが、正直に言えば私は朗読とは何か、みたいなことばかりに気を取られて、内容があんまり入ってこなかった。 詩が悪かったというのではないと思います。詩に対峙する態度があんまり良くなかったんだと思います。また同時に、「東日本大震災」に対する思いがあまりに遠くなってしまっているせいもあると思います。 私は当時関東に住んでいて、道路にひびが入るとか、書店の棚が大崩れする、くらいの影響を身近で受けていました。震度5強くらい。 しばらくは、原発はどうなってるんだとか、被災者の暮らしがどうなっているか、みたいなニュースばかりが報道されて、生活に直接影響している「感じ」がありました。 (実際の影響はせいぜい節電せよとか、「不謹慎」を回避せねばとか、CMが公共広告機構ばかりになるとか、その程度のものでしかなかったわけですが) 10年も経てば遠くに、遠くに感じます。感じ、くらいはせめてどこかに残しておきたいと、今ブログを書きながら思っています。

足取りを清書する

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8/23 19:00-21:30 ゆうあいセンター・会議室1  担当:O 先週に引き続きダンサー・散歩家の古川友紀さんのゲスト講師回。 まずは頭をバスタオルに乗せ、ハンモックのようにリラックスさせるワーク。 浮遊感は少し心もとないが、背骨が伸びる感覚と頭部の重さを施術側も受ける側も感じたと思う。 その後は横隔膜を意識する準備運動。吸う時にお腹が凹み、吐く時に膨らむ。これがこの次のワークに大きな変化をもたらした。 先週と同じく、二人組になり、一人は先を歩いて、後続はその歩き方を再現できると思ったらそれに続いて歩き出す。二人の同期を肌で感じたら先発は歩行から離脱し、後続は先発の歩き方や空気感が身体から抜けるまで歩き続ける。 横隔膜の体操と、先週からの慣れもあるだろうか、歩き方に重心を感じるものが多くなった。それは言わば個性がなくなることでもあるとの意見もあったが、ワークを行ったメンバーからするとパフォーマンスがしやすくなり、見ていても良い歩き方であったことを発見するポジティブな変化であった。歩き方が技術として上達していくことは再現の為の筋道が立てられたということでもあり、実験的なワークのターニングポイントだったのかもしれない。そんな中に”歩き方”ではなく”態度”を真似たというメンバーも現れ、まだまだ発展の余地を残した実験であることを感じさせた。 その感覚を保ちつつ、再び先週と同じ、部屋を歩き(踊り)回る人の足取り(や雰囲気)を紙になぞっていくワーク。古川さんから、踊る側も書く側の様子を伺うと良いという言葉があった。実際にやってみると、踊る側は書く側の軌跡を、書く側は踊る側の下書きを清書しているように感じた。二人に共通のGPSを持つと言えば伝わるだろうか。そもそも線を描くということは頭の中にある下書きを紙に清書するようなことではないだろうか。まだ掴めてはいないが、ここでも同期が必要になってくるだろう。 最後は、トレーシングペーパーで新聞の写真や絵の模写と、手元を見ずに相手の似顔絵を書くワーク。線や絵を描く時に参照にするものは頭の中のイメージばかりではない。トレーシングペーパーに浮き上がった線を清書する。目で見た相手の姿を頭を通さずに清書する。 演劇における”再現”とは清書するという意味も含むのではないだろうか。誰の下書きをなぞることになるのかは分からないが、それは先人だっ

あるくこと、あるくという営み、あるくという動作、あるいは云々

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 8/16 19:00-21:30 城内公民館・多目的室 担当:渡辺 ゲスト講師として、ダンサーで散歩家の古川友紀さんが来てくれました。 散歩家、というのが何なのか私もまだよくわかっていませんが、 実際に散歩すること[から/で]何かを考えたり作ったり、 歩くこととは何かを考えたり実験したりしている人のようです。 自己紹介がてら、カエルの鳴き声をもとめて大阪の北摂を夜通し歩き回った、ときの記録を映像作品に翻訳した、ものを観せてもらいました。 散歩についての考え方、感じ方、実践の仕方、はやはり人によって様々です。 私などは昼でも夜でも散漫に歩くのが好きですが、それでも「新たな道」や自分の中の「新たな考え」を「発見」することがちょっとした目的となっているような気がします。 (散歩に限った話ではありませんが、大人になるにつれ「無目的」ということの価値は相対的にどんどん下がってきたなと感じています。) ただ例えば最初に目当てのスポットがあって、それを目指していくと、道中にいろんな面白いモノがあったとしてもあまり目に入らなくなったりする。 すこし身体に「あそび」のある状態の方が、偶然に感得できる何か、との遭遇確率は高くなりそうです。 「あそび」を担保する条件は何か(あるいはそれを阻害する要素は何か)、みたいなこと考えることは重要かもしれません。 例えば時間の制約があったり、身体が疲れすぎていたりすると「あそび」はなくなっていく、気がする…などといった具合に。 後半は「あるく」について。 (あるく、というと NHKの0655の「歩くの歌」 を思い出します。このリンクからは動画は見られませんが。 「いっしょうけんめいあるくよ こんなふうにあるくよ 自分なりの方法であるくよ」) まずはゆっくりあるく、互いにゆっくりあるくのを真似る、などをやりました。 「普段の歩きをゆっくりにするのか、「ゆっくりあるく」という特別な動きをするのか考え方が分かれる」という意見が出ましたが、私は前者を意識してやっていました。 すなわち、録画して倍速をかけたときに、普通にあるいているように見えるためにはどうすれば良いか?と。 人のゆっくりあるきを見ていて気づいたのは、足だけ先に動いて身体が後からついていくということと、足を上げるときはゆっくりだけど下ろすときに速くなってしまうということでした。 重心を一定の

8月9日の稽古

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8/9 19:00-21:30 城内公民館・集会室3 担当:O みんなで観に行くKYOTO EXPERIMENTの公演はサマラ・ハーシュ『わたしたちのからだが知っていること』( https://www.kac.or.jp/events/32330/ )に決定しました。フォースド・エンターテイメントと票数は同点でしたが、今回のサマラ作品は戯曲を用いないものであること、演者・観客との質問や対話を通して創られていくものであるという点から伊藤ラボの過去の公演と響きあうところもあり、こういった形式の公演に観客として触れる機会を大事にして欲しいという思いから選ばれました。 ・詩を演出する みちがすべった あしのしたですべった すってんころりん ちきゅうがおびといた (↑谷川俊太郎 詩「すってんころりんうた」) 谷川俊太郎の詩をそれぞれ演出し、上演した。以下は上演風景。上演後の講評では様々な意見が交わされた。 ・膝を撫でる仕草に艶めかしさがあった ・スマホを床に滑らせたことで視線が移り広がりが見えた ・脚にスマホを置いていたがしまい忘れたのかと思った ・身体を前後に倒す動きで男女を表現しているように見えた ・ふたりが折り重なることで地層を表現しているように見えた                                                 ・転がることで長い時間の経過を感じた ・サンダルを落とすところに集中させる緊張感が生まれていた ・机の動きを制御できていないところに偶発的なもの、地球の意思を感じた ・詩の朗読と身体の動きが分離されている意義を問う意見が出た ・この上演を見て初めて、この詩が地震を表現しているのではないかと思い至った ・ドアを叩く、窓を開けようとする、椅子に頭を隠すなど地震を暗喩する表現を部屋全体を使って行っていた ・自他ともに、前転・四足歩行のシーンは蛇足だったのではないかという意見が出た ・水色の靴がキャラクターに見えた ・「遊び」の領域を使った上演だった ・ディスカッションを元にした演劇を作る ディスカッション劇を作るために、どうすればそれが面白くなるのか意見を出し合った。 議題は「マスクの是非」。演劇として面白くするために、いつごろの話か・人物の考え方・舞台設定が話し合われた。 個人的に惹かれた設定は”工事現場”であった。世間

演劇をめぐる諸実験について

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8/2 19:00-21:30 城内公民館・多目的室 担当:渡辺 調光室、のある良い感じの場所にきました。暖色系の照明と夕陽が相まってなかなかのエモ空間。 高槻現代劇場が改修中の現在、しばらくはここで活動することになりそうです。無料ですし。 第2期のとき、 みんなで同じ芝居を観てきて感想を言い合う、という回 がありました。今期もそれをやることになりました。 KYOTO EXPERIMENT (以下KEX)の演目から選ぼうと。で、その話合い。紹介文を読み上げて、どれを観に行ったら面白いだろうかと相互に検討。 experiment(実験)の名の通り、内容も形式も非常に実験的な演目が揃っているKEXのラインナップ。 演劇は、多かれ少なかれ様々に実験をしているのだと思います。ストレートなエンタメ演劇だって、全て「観たことある」ものだと退屈でしょう。筋のどんでん返しや奇抜な演出のアイデアを、多かれ少なかれ用いていると思います。それは100%受け入れてもらえるものではないかもしれないけど、ウケるはずだ!と信じて舞台にあげる、という意味ではこれも一つの実験です。 大真面目に言ったら鼻で笑われたり、嫌がられるかもしれない表現も、舞台上ならある程度(どの程度まで、なのかは非常に難しいところですが)許される。 ノーベル賞級の発見は、失敗から生まれた常識外の発想が元になっている、みたいな話はよく聞きますが、舞台上でしか提示できない人間社会のイノベーションもあるかもしれない…くらいのことは思います。 そういえばこの集団も「アクターズラボ」なのでした。ラボ=laboratory、実験室、研究室。日常から離れて、舞台上でどんなことができるのか。日常的には許容されない「大きな声を出す」ももしかしたら一つの実験です。しかしそれだけならカラオケに行けば良いかもしれない。演劇に可能な実験は、どういうところにあるのか。自分達だけで模索するのも一つですが、いろんな実験を観に行くのもやはり一つの手です。 当然失敗する実験も無数にあるでしょう。成功が100%約束されているならそれは実験とは言えない。それでも「何かがありそう」、「失敗からでも何かが学べそう」、みたいな嗅覚も必要な気がします。 今回は3〜4つくらいの候補に絞るところまで。KEXの公演の予約が始まる来週、どれを観に行くかを決定します。良い実験に出会