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これからのカリキュラム決め

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  7/19 19:00-21:00 高槻市生涯学習センター 担当:O 初めまして。これから月2でブログ更新を担当するOです。 今週も柔軟体操から始まる。二人ひと組で柔軟をする流れから、お互いを押し合い引き合い組体操のような動きをする。 相手と力の均衡を保ち姿勢をキープすることは先日のペンを使ったワークと通じている。ペンを介しているとペンと指先で均衡を保っているように感じるが、今日のように直接身体を使うと違った感覚が生まれる。力はどこか一点から生まれるわけではなく、床と接する足底を基点に、身体のいくつもの筋肉・骨を伝わって来ている。 それを感じた後は、声に指向性をつけるワーク。目を瞑り、身体はやや傾ける程度で意図した人へ声を届けられるかを試した。これも力の方向だが、主観が大いに混じるのでそう上手くいかない。 メインのワークはラボ3期のカリキュラムを出し合うこと。それぞれが関心のあることややってみたいことを模造紙にポストイットを貼り付け交換する。 伊藤さんは参加者がそれぞれ何に関心があるかに関心があると仰っていた。それを受けメンバーは自由に意見を出し合い、ジャンル分けした。 カリキュラムにすぐ転用できそうな意見は、「エチュード」「練習」コーナーだろうか。 ・怒る、泣くことに慣れていないので練習する ・青春時代を即興劇で ・合コンのような形式で、聞く・聞かれることに慣れて自分の意見を確立させる ・歌唱 具体的に「We are the world」のモノマネをするという意見も出た。 テキストに関することでは、 ・情勢を鑑みロシアのことをよく知るためロシアや紛争国家の戯曲を読む ・安保・全共闘の時代に関心があるという意見から三島由紀夫らの戯曲を読む ・具体的にはAAF戯曲賞受賞作『リンチ(戯曲)』を読む という意見があった。 戯曲を扱わない(たぶん)伊藤クラスではメンバーの興味関心が大きな鍵となる。 ・高槻の新劇場が完成するまでに何があったのか(土地・経緯) ・新劇場の建設に反対する人の意見を聞く など、高槻の街を知ることについて意見が多く交わされた。この方向で進んでいけば高槻市も嬉しい限りだろう。それぞれの意見が有機的に交われば良いワークが生まれるだろう。 他には政治や福祉への関心が挙げられた。 7/19 19:00-21:00 高槻市生涯学習センター 担当:O 前回の意

わかってきてしまったのか

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 7/12 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺健一郎 分けたい欲求にはどうしても駆られます。分割、分類、分担、分業、分配、云々。 分けた方が効率が良かったり、心地良かったりする。 「分かる」=「分ける」だとはよく言われることですが、われわれは何かを認識するとき、必ず何らかを「分けて」います。 目に入った全てのものを認識していては、頭が疲れてしまいます。通常ひとは、生活に必要なことや印象的なことだけを切り分けて感得している。 自宅から駅までの道のり、何が、どのようにあるのか逐一思い出せるでしょうか。 マンホールがいくつあるのか、隣のマンションの屋根が何色か、道中の空の方角はどちらを向いているのか? フランスでは蛾と蝶をいずれもpapillon(パピヨン)と呼び、区別がない。 細かく名前をつけていくことで、われわれはどんどん細かい認識ができるようになる。例えば「生物多様性」を理解するために、生物学では18世紀に「分類学」という考え方が確立されました。 生物をよりよく理解するためには、分類をどんどん細かくしていくのが正当なやり方だ、ということです。 (その結果、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」という生物分類ができたというのは何かおかしみを覚えます) ところが、分けることで鈍感になる、ということもある。男/女の区別などが最たるものの一つでしょう。 一度分けてしまうと、その区分を無視して考えることは難しくなります。 ガとチョウで、どうしてもガの方を「嫌なもの」と認識してしまうわけです。 分けること、分かることは、日常生活を楽にするためにはおそらく必要なことです。 しかしそれによって余計に分かりづらくなっていることもたくさんある。 複雑な世界を、切り分け、誰の目にも見分けられるようにし、それをもって「正しい」認識とすることに抗いたいという気持ちがある。 …と思っていたのですが。 「過去に観た芝居の中で最も印象的だったものを2分間で語る」というときに、パッと思い浮かべた2作品がいずれも学生時代に観たものだということに気づいて、少し暗い気持ちになりました。 印象的だというのは、恐らく(あくまで恐らく、ですが)「それまでは分かっていなかったけど、"何か"が輝いて感じられた」といったことなのだと思います。 多くの作品を観ると、「この作品はあの作品と似

第3期スタート、引くことの力

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7/5 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺 一ヶ月のお休み期間を経て、再開しました「あした帰った」。 新たなメンバーが増えたりなんだり、よそおい新たにまた1年。 どうぞよろしくお願いいたします。 最初のワークは、二人組で蛍光ペンのような〈棒〉を互いの人さし指で支え合い、 指先の感覚だけでコミュニケーションをとる、といったもの。 このワークでは、基本的には押し/引きの応酬によってコミュニケーションが成立します。 二人ともが同時に引いたら、当然〈棒〉は落ちます。 相手の動きをくみ取って、より良き関係をじっくり模索していかねばならない。相手が引いたら、こちらは押さねばならない。 あるいはまた、押しているのか引いているのか、だんだん分からなくなってきたりもする。 押させられている?というか、「押す」ことへと引き寄せられている?みたいな。 重要なのはここで、必ずしも相手の「意図」をくみ取るのではない、という点です。 二人の関係の中で、「行きたくないのにこっちに動いてしまう」みたいな瞬間が必ずおとずれる。 避け得ない意図せぬ動きを、どう遊び、どう乗り越えるかということが一つの肝になっていた様に思います。 しかし「私がコントロールして、現状のアンバランスを立て直さなきゃ」などと思うと、大抵はうまくいかない。 あくまで対等な二人の関係の中で、どういう解決策が見出されるのかを丁寧に模索する必要がありそう…私はあんまりうまく行かなかったのですが。 ちなみにタイトルは鷲田清一『「聴く」ことの力』をもじったものですが しかし意味は近いかもしれない。すなわち、単なる能動性ではないものに積極的な価値を認める、ということ。 「演技をする」って何だろうと、考えれば考えるほどよく分からなくなってきます。 舞台上では「この私が演じてます!」みたいな「"私"感」、みたいなものが前面に出てくるとうるさく思えてしまう。 「私」は、上演中は引いた位置にある方が良い。前面に出てくるのは、あくまで戯曲の登場人物であった方が良い。 ( 第2期の公演のための稽古中 でも、「心もとない存在」としての俳優、みたいな話がありましたが、近いことかもしれない) しかし俳優は、「引く」ということを「試み」なければならない。そこにどうしても「私」が介在する…? 云々。 演劇について、演技につ