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担当者、俳優として落ち込む

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10/25 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺 日中はまだ暖かくもありますが、夜は相当冷え込みます。 だいたい仕事終わりのメンバーたち。残業体調不良資格試験準備その他諸々、みんな様々にお休みもありますが、毎週平日夜に5〜6人が集まって活動しているというだけでもすごいことだなと思います。 今日のメインの活動は、先日KYOTO EXPERIMENTで行われた フォースド・エンターテインメント『リアル・マジック』 のフォーマットを借りて、それを演じてみるというもの。 三人の登場人物がいる。一人が司会、一人が出題者、一人が解答者のクイズ・ショー。 2〜3分で、司会が解答者に名前などを聞いた後に解答させ、解答者は3度間違い、終了。これが1セット。 1セット終わると、担当する役が変わって、ほとんど同じことが繰り返される。 これが4〜50回くらい?繰り返される「だけ」の芝居です。細かいセリフなどは違えど、大枠はほとんど変わらず、文字通り同じことが繰り返されるだけ。舞台上に、何もドラマは起こらない。しかしなぜだか面白い… 俳優が面白くなければ面白くなりようのない芝居です。俳優がほとんど全ての重責を担っている。 ただセリフを連ねていけば、話が展開していって観客も満足できる…といった類の上演ではないので、独特な、かなり強めの緊張感を覚えました。少なくとも私は。 2チームに分かれてやりましたが、われわれのチームは、マンパワー?で何とかするという仕方で作っていった。 出たとこ勝負というか、「間」や言い方の面白さなどに注意を払って練習していました。しっくりこない感じを抱きながら。 写真の、もう一つのチームは、状況や設定から作って、それをもとに演技をしていたようでした。悔しいことにこれが面白かった。 俳優として、試されている感じがしたなぁ! そしてそれに応えられなかった感があって大変不完全燃焼。というか火もつかなかった感。 しかしこのフォーマットでやってやるぞ、面白くできるはずだ、という気持ちにもなれておらず、困った。困ってしまっている。

人体の可動域、詩の構造

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  10/18 19:00-21:30 生涯学習センター 和室 担当:O 本日も見学者を二名迎えての稽古。 和室で座布団があったので、準備運動として寝転びペアの体をマッサージ。肩甲骨の場所を探したり、身体の形や可動域を意識する。 一つ目のワークは、円になり、腕を交差させて手を繋ぎ、絡まった腕を解くというもの。8人なので比較的大所帯。最後には目を瞑り、声で指示をしないで解く。腕を潜ることはできても、乗り越えることは難しい。絡まった紐を解くことと同じ要領だと思ったが、目を開けても難儀することを、全体図も見えず、かつ円なので始点・終点もないまま手探りで進めるのはより難しい。目を瞑ったまま紐を解いた経験などないし、プレイヤーは一体何を頼りに開放まで導いているのだろうか。引っ張って導くことはできる。腕の数で結び目の数を特定することはできる。腕の高低でほつれの規模を推測することはできる。どうも、腕が楽になるように移動していくことがもつれの解消への近道らしい。身体の柔らかい人だけでやれば簡単なのだろうか。謎は解けない。 二つ目は、恒例の詩を演出するワーク。 ばか ばかかった ばかはかかった たかかかった はかかんだ ばかはかかんだ かたかった はがかけた ばかはがかけた がったがた はかなんで ばかはかなくなった なんまいだ (ことばあそびうた 谷川俊太郎) 一つ目のペアは、詩からストーリーを読み取り、母子の物語として演出した。       二つ目のペアは、言葉を身体で表現し、詩そのままのイメージで演出した。 三つ目のペアは、音楽に乗せて激しく踊りつつ繰り返し読むことで、リズムや語感を強調する演出をした。 四つ目のペアは、和室を上手く利用し葬式のような空間を作り出し、詩のテキストを背景にすることで独自の演出をしていた。 各チームそれぞれ目の付け所が違い、講評会では演技を褒める声や、激しいダンスの健闘を称える声があった。詩はやはり戯曲やテキストとも味わうことのできる部分がまた違う。上演することに躍起にならずに、一度詩とは何かを考えてみるのも良いと思った。

場に生じたこと[を/で]

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 10/11 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 担当:渡辺 今回は盛り沢山で何を書こうかちょっと困った。困っている。 ちょっと気取った話からしますと、私の好きなフランス語の熟語に「avoir lieu」というのがあります。 avoirが、英語でいうhaveみたいな多義語。基本的には「持つ」の意。lieuが「場所」。 「avoir lieu=場を持つ」で事件とか出来事とかが「起こる、起きる」という意味になります。 何かが生じるときには、必ず「場」が必要になる。そして場所が変われば生じることも変わるはずです。 当たり前のことと思われるかもしれませんが、演劇にとっては極めて重要なことです。 「同じ」演劇公演を大阪と東京で行おうとしても、絶対「同じ」にはならない。 場所が違うなら当然内容も変わってくる。 客席までの距離が1m違えば、伝わり方は大きく変わるはずなのです。恐らくはほとんど、無視されていることでしょうが。 そして「劇場」が同じなら「場所」も同じかと言えばそれも違う。 同じ劇場の中でも、夏と冬ではまるで違う場になっているでしょうし、厳密に言えば昨日と今日とでも違うはず。 じゃあ「場」って一体なんなんだ、と言いたくなるところですが、それを知るために演劇をやっているとすら言えるかもしれない(半分は気取って言ってますが、半分は本気です)。 演劇の作り方にも色々あります。まず上演する戯曲を選んでしまってから、それに沿って俳優をキャスティングしたり。 「当て書き」と言って、個々の俳優のパーソナリティに即した登場人物を中心にして戯曲を書いていったり。 あるいはまぁ、「演出家のイメージ・考え」みたいなものありきで、そこに俳優を従属させたり。 「あした帰った」は、なるべくその場に生じたことを出発点にしようとしています。 それは必ずしも、集まった人たちの趣味・嗜好といったことに限定されません。 集まった人たちの中で、 生じてしまった 面白いことなどを起点に稽古を進めていく。 最初に準備運動もしますが、毎回決まった体操をするわけではなく、 それぞれに動かしたい身体の部位を動かす。それを他の人にもやってもらう。 みんなが下半身を動かす運動ばかりを指定したら、上半身の準備体操は全くできないかもしれないけど、それはそれで。 今回は見学者が二人いました。ただし「場」を取り扱う場合、