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終演、しばしおやすみ

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5/28 11:00-18:00 5/29 11:00-18:00 クロスパル高槻・和室→高槻の街→福寿舎・蔵 終演しました。 1対1で、目隠ししつつ高槻各所をまわる「ブラインドデート」、 怪我や体調不良もなく、なんとか、なんとか無事に終えることができました。 1対1というのはそれ自体が面白く、演出、俳優側で想定していたのとは全く異なる反応を見せてくれたお客さんも少なくなかったようで、中にはラストシーンの音楽が流れるところで踊り出した人もいたそうです(記録を残せなかったのが心残りです)。 俳優側も、四人それぞれで雰囲気がかなり異なっていたりするので、どの回に参加するかでだいぶ上演の趣きは変わったと思うのですが お客さんとの組み合わせでも全く違ったようです。30回すべてが、まるで異なる上演だった。 さらに面白いのは、それがどういう上演だったのか、当の二人にしか分からないということ。 反省会でおもしろエピソードなどいくつか聞きましたが、あくまで語られたことでしかないので、指先の感覚とかまでは他人は決して把握しえない。 私秘的な経験を、うちにとどめておいてもらいたいとも思いつつ、しかし詳細に開示してもらいたいとも思ったり。 厄介な上演に、皆様ご参加いただき誠にありがとうございました。第3期始まるまで、「あした帰った」は少し休みます。一ヶ月程度ですが。

完売御礼

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5/15 13:00-19:00 蔵 5/17 19:00-21:30 クロスパル高槻 『ブラインドデート』、おかげさまで完売しました。 最後まで、細かい演技のあれこれを考えています。 「質問」と、単なる「発話」の大きな質的な差や。 目線の機微と、それの持つ強烈な力や。 言葉の間の空白などについて。 目線などは通常の芝居でも重要ですが、100人の客を相手にする場合とではその重みがまるで違う。 貴重な機会です。極めて難しいので、どこまでやれるかという想いもありますが… 次の更新は終演後かしら。 ※写真は、最後まで上演場所として検討していた場所からの風景。

宣伝もかねて

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5/8 13:00-19:00 生涯学習センター和室 5/10 19:00-21:30 福寿舎 蔵 あした帰った 第2期公演 『ブラインドデート』(5/28-29) https://www.gekken.net/actorslabo/cn30/pg2289.html 予約フォーム https://www.quartet-online.net/ticket/ashitakaetta ようやく今月末に迫った公演の情報を公開することができ、 ああそうか今後はネタバレになったりするからあんまり写真載せたりできないかもな と思い始めたら何も書けない気持ちになってきました。 前の 「決めることは厄介だな」 でも書きましたが、演出=directionによる方向付けで、意味や感覚を限定していかなければならない。これまで築いてきた豊かさを切り捨てる勇気が必要です。 (この2週間ほどで、さまざまな捨てる苦しみが生じました、少なくとも私には) とはいえ、おそらく「あり得たかもしれない他の方向」も、解体されゼロになってしまうわけではない。 感覚されないだけで、背後に必ず生きている……と言うのはやや簡単なのでもう少し言葉を連ねるならば、 俳優は、読むべきテクストやそこに描かれているものだけを演じれば良いのではない。「脳裏に焼き付いている強烈なイメージ」などを掘り起こしてくる必要がある、場合がある。 一つのテクストに向かう際に、どれだけのイメージと共にあることができるか、というのも俳優の一つの技量なのだと思います。今回の公演ではなおさら。 紆余曲折がなければできなかったであろう、俳優の深みが随所に見られます。すでに公演30枠のうち9埋まってますので、ご予約はお早めに。 ※写真は稽古中に視察に行った河川敷(芥川)、で行われていた高槻の鯉のぼりフェスタに個人的に訪れたときのもの なお、 第3期メンバーも募集 しています。あわせてよろしくお願いいたします。

場所と象徴

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4/29 13:00-17:00 福寿舎 蔵 5/3 13:00-17:00 クロスパル高槻 和室 演劇を哲学的に考えようとした(そして哲学とは演劇的なものであるとした)、 日本で最後の人と言って良い、中村雄二郎が、 世界のありようを「コスモロジー」「シンボリズム」「パフォーマンス」で説明しようとしていました。そしてこれはまさに演劇を成立せしめているのと同じ構造なのだと。 詳しくは 『魔女ランダ考』 を読んでいただければと思いますが、学生の頃、随分単純に言ってくれるなぁ!などと若干の反発をもって、しかし興味深く読んでいました。 今ならもう少しわかるな、という気がします。とりわけシンボリズム(象徴性)について。 わかりやすく言えば、例えば寺社仏閣にわれわれは何らかの荘厳さ=象徴を感じてしまう、といった話です。 象徴という語を、当時はやや胡散臭く感じていました。 ただ、場所の喚起する象徴性は、確かにある。 例えば寺山修司 「 劇場があって劇が演じられるのではない。 劇が演じられると、劇場になるのである。」ーー昔はこれを字義通り?というか浅薄に理解して、 「どこでやっても質的な違いはないのだ、劇場は要らないのだ」などと思っていました。 そのため、場所が特権的な意味や価値を持つとする「シンボリズム」の思想に違和感があったのでした。 (寺社仏閣にも全く面白さを感じていませんでした) ただ、寺山も「どこでやっても一緒」などということを考えていたはずはない。 彼の文章を全て検討したわけでありませんが、劇場化可能な場所の条件を考えていたはずです。あるいはまた、劇場の可能性を見出したら、その場所に価値や意味を見出す作業に相当の労力をかけていたはずです。 象徴は、「すでに」「そこかしこに」「ある」ものではない。 文明は川沿いから発展するといった様に、ある程度の自然の条件はあれど、 そこに人間(あるいは人間以外の生き物たち)が少しずつ見出し、作り上げていった象徴なるものがあるのだと思います。 そして演劇は、この突発的に象徴性を作り出すことのできる営みだろうな、などと思いました。 あるいは、忘れられていた象徴性を掘り起こすもの、だったりもするかもしれません。 情報量や娯楽は多いのに、なんか弊版で退屈だ、と感じられる街に、 一つの象徴性の杭を打つことで、そこを中心として街が別様に色づく、とい