あるくこと、あるくという営み、あるくという動作、あるいは云々

 8/16 19:00-21:30 城内公民館・多目的室 担当:渡辺

ゲスト講師として、ダンサーで散歩家の古川友紀さんが来てくれました。

散歩家、というのが何なのか私もまだよくわかっていませんが、
実際に散歩すること[から/で]何かを考えたり作ったり、
歩くこととは何かを考えたり実験したりしている人のようです。
自己紹介がてら、カエルの鳴き声をもとめて大阪の北摂を夜通し歩き回った、ときの記録を映像作品に翻訳した、ものを観せてもらいました。


散歩についての考え方、感じ方、実践の仕方、はやはり人によって様々です。
私などは昼でも夜でも散漫に歩くのが好きですが、それでも「新たな道」や自分の中の「新たな考え」を「発見」することがちょっとした目的となっているような気がします。
(散歩に限った話ではありませんが、大人になるにつれ「無目的」ということの価値は相対的にどんどん下がってきたなと感じています。)
ただ例えば最初に目当てのスポットがあって、それを目指していくと、道中にいろんな面白いモノがあったとしてもあまり目に入らなくなったりする。
すこし身体に「あそび」のある状態の方が、偶然に感得できる何か、との遭遇確率は高くなりそうです。
「あそび」を担保する条件は何か(あるいはそれを阻害する要素は何か)、みたいなこと考えることは重要かもしれません。
例えば時間の制約があったり、身体が疲れすぎていたりすると「あそび」はなくなっていく、気がする…などといった具合に。

後半は「あるく」について。
(あるく、というとNHKの0655の「歩くの歌」を思い出します。このリンクからは動画は見られませんが。
「いっしょうけんめいあるくよ こんなふうにあるくよ 自分なりの方法であるくよ」)



まずはゆっくりあるく、互いにゆっくりあるくのを真似る、などをやりました。
「普段の歩きをゆっくりにするのか、「ゆっくりあるく」という特別な動きをするのか考え方が分かれる」という意見が出ましたが、私は前者を意識してやっていました。
すなわち、録画して倍速をかけたときに、普通にあるいているように見えるためにはどうすれば良いか?と。
人のゆっくりあるきを見ていて気づいたのは、足だけ先に動いて身体が後からついていくということと、足を上げるときはゆっくりだけど下ろすときに速くなってしまうということでした。
重心を一定のスピードで前に移動させたり、重力に抗って足をゆっくり下ろしたりするのは、どうしても結構な筋力が必要になるため、難しい。
当たり前のことかもしれませんが、「同じ動きをスピードを変えて行う」と口では言えても、厳密には「同じ動き」にはなり得ません(今書いていて、ここには何やら演劇の真髄があるのでは…などと思いました。思っています)。



最後に実験を。一人が空間内を好き勝手あるきまわって(踊り回って)、もう一人がその動きを紙に書き起こす、というもの。
いや、書き起こすというよりも、一方の動きを触媒として?紙の上でえんぴつを動かす、といった方が正確かもしれません。
古川さんも初めての試みということだったので、どうすると面白くなるのか、ここからどういうことを感じ得るのか、は誰にも分からない。分からないまま、手探りで進んでいくということをやりました。
紙に描かれた結果も一応↓に写真を遺しますが、私は「結果」よりも描くという動きの方が面白かった。もちろん結果から読み取れることはあるにせよ。
形状、濃淡、スピード、リズム、様々なことで動きを表現しうる。まだ洗練させる、このワークを面白く進められる筋道がありそうだな、という感触はありました。


今回、内容以上に古川さんの態度に感銘を受けてしまっていました。
私も最近ときおり「講師」的な立ち位置を担うことが増えてきたのですが、どうしても過去にやってみて感触の良かったワークを繰り返す方がベター、みたいな思考になりやすい。
初めての試みを初めての人たちと一緒にやる勇気がでない。
でもある程度面白いはずだと直感したなら、決められた時間内、そのまわりをフラフラとみんなで歩いてみる、みんなで面白さを発見していこう、そういうある種のゆだね感?も重要だなと強く思えました。
なるほどこれが散歩的態度なのかもしれない。演劇をやっているなら、目的地を目指して一直線、ではしょうがない。ねぇ。

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