質問と安心と

4/3 13:00-17:00 自宅
4/5 19:00-21:00 現代劇場205
(※4月はほぼ日・火で稽古があるもんで、あわせて書いていきます、ね)














「質問」って面白いんですね。知らなかった。
あした帰ったは、第一期の公演が「質問と答え」というタイトルで、まさに「質問」をテーマにしていました。
私はその頃には関わっていませんでしたし、上演も直接は観ていないので、いまいち「質問」の奥深さがわかっていなかった。
前回も「質問」と「問い」との違いを書きましたが、
もっと様々に種別?ができそうです。
相手からの回答を必要とするもの。
投げっぱなしでよく、回答の要らないもの。
(あるいは回答などできず、心にとどめておくしかできないもの)
「質問」という体裁をとって、詰問するもの。
(あるいは日常の態度を改めるべきだと強く主張するもの)
「質問」という体裁をとって、聞いてほしい自分の想いを届けるもの。
普通ひとが考えてしまうこと、とは違う考えを喚起させようとするもの。
(あるいは質問者の中に明確に「正しい回答」が存在するもの)
質問それ自体が、一つの物語になっているもの。
簡単に回答ができてしまうものや、簡単に回答を拒絶してしまう場合を除いて、
普通に会話をしたり人の話を聞いたりするよりも印象に残ることが多い気がします。
それは、通常の意味でのコミュニケーションが単純には成立しないからではないか。
過去や未来、あるいは日常的には気づいていない自分の様々な感覚、考えに想いを巡らせなければならないからではないか。
…と書いてから思いましたが、↑のことは、私個人が質問に真剣に取り組もうという意識が強すぎるために起こることにすぎないかもしれません。
多くの場合、「簡単に回答ができてしまう」ないし「拒絶してしまう」のかもしれない。
厄介な問い(例えば「あなたは何ですか」)に対して、「人間です」とか「わかりません」といった具合に。
「質問」だけで面白いのではなく、何らかの「回答」の態度が要るのかもしれない。
あるいは、そのような回答の態度を促す質問の仕方、ないし適切なトーンがあるのかもしれない。こんなに演劇的なことはないかもしれない。

あるいはまた安心を得る、ことについて。
どういうときに安心を覚えるか、ということがやはり人によって違うようです。
目を瞑って、誰かに手を引いてもらうとき。
私なんかは言葉の有無はあんまり気にしないのですが、会話が途切れると不安に感じる人もいる。
私は逆に?様々に危険の可能性を考えてしまって、会話よりも「この辺には何もないので大丈夫です」などと言ってもらった方が幾分安心する。
(関係ありませんが、自動車の免許は取ったのですが、こんな危険の可能性しかないものに継続的に乗れるか、と取得以降一度も乗っていません)
目が見えていない場合、「疑心暗鬼」にはいくらでも陥ることはできる。
それでも大丈夫だとある程度相手を信頼するためには?
相手のパーソナリティを信頼することなのか、無駄に陥ってしまっている疑心暗鬼を晴らすことなのか、
ここにも様々な考え方や技術がありそうです…




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