「ひとのために何かすることで自分が幸せになるんですね」
私はどちらかと言うと「利他」の甘美すぎる響きにはやや懐疑的なタイプですが、しかし「何かをしてあげる」ということが気持ち良いというのは確かにあるはずだとも改めて思いました。
ただ、人が喜ぶことを嫌々やる、というのが嬉しいはずもないので、やはり利他と利己が一致する時に快楽が生じるのだなと。
アラン『幸福論』に「あくびの技術(L'art de bâiller)」の章があります。
「あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。」(神谷幹夫訳、岩波文庫、1998)
タイトルが「あくびの"技術(=芸術)"」となっているのは面白いことだなと思います。基本的にあくびは意志や意図とは無関係に、勝手に出てしまうものでしょうから。
ただ、もし緊張状態がデフォルトになってしまっていて、それに抗うために気を緩める、一息つく、頭を空っぽにする、みたいなことで「あくびを許す状況をある程度意図的につくる」ことができるならば、それは「あくびの技術」と呼ばれても良いのかもしれない。
また少し違う話になりますが、あくびをわざと出そうとしたりすることもできなくはなさそうです。目を瞑り、耳の後ろあたりに力を入れ、胸呼吸(?少なくとも、腹を膨らませる腹式呼吸ではない)を深くする、肩のあたりを震わせる、みたいなことを同時にやると、あくびができる!もう少し細かくいえば、目を瞑りながら、眼球は少し下を向いているだろうか。
今、何度か試してみていますが、何度でもできますね。「あくびっぽい動き」をしているんじゃなくて、自然と涙も出てきますし、これは多分あくびそのものだと言って良い様な気がする。
「若干の眠気」は前提条件になっているかもしれない。完全覚醒状態だったら難しいかもしれない。でも、文字通りある程度の「あくびの技術」はありそうです。
生理的なものと、演技との関係はもう少し考えたいところ。
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