集中がある、どこかに、とすれば

 4/25 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室


前回流した瞑想のテキスト、もともとは英語の文章のようで、原文を見せてもらったのですが、これが大変面白かった。
英語というか西洋の文章はたいへん文法にうるさく、主語と動詞(述語)は必要不可欠なんですが、瞑想のテキストには動詞がない文が多い。

例えば 'Finding a position of stability and poise(...).' 。

直訳すれば、「安定と落ち着きのポジション(姿勢、体勢)を探すこと」。
普通だと例えば命令形Findを使ったりすることが考えられる(「ポジションを探してください」といったように)のですが、この文章では動名詞Finding(「探すこと」)があるのみで、動詞がありません。
日本語だと「〜すること。」という文章にそこまで違和感ないかもしれませんが、英語だと結構異様です。

勝手な想像ですが(しかし完全に当て推量というわけでもありませんが)、瞑想というのは自分とその他のものの境界を曖昧にする作業なのであるから、主/述という区分は邪魔になるのではないか。
動名詞で表現するしかないのではないか。

もしかしたらその意味で、主述を結構適当に使(ってしま)える日本語というのは、瞑想に適した言語なのかもしれません。

いずれにしてもしかし、瞑想のテキストを「発話する存在」はどうしたって必要です。ただ「この人が喋っている」という意識が明確になってしまうと、瞑想からは遠ざかることになります。
声は聞こえているし、意味は把握できるけど、「誰」が言ってるとか、聞いてるのは「自分」であるとか、そういう意識から遠ざかること。
そのためには、どの様な文章で、どの様な発話の仕方をすれば良いのか。

おそらく「集中状態」を生み出すための方途を考えなければならない。
寝ようと思いすぎると寝られない、のと同じように「集中しようと思いすぎると集中できない」、集中しようと思わないしかたで集中を目指す?
(マニアックな話をすると、最近哲学者の國分功一郎が『目的への抵抗』という本を出しました。「目的」ばかりが取り沙汰されるこの時代に、脱目的的な生を考えようとするものです。問題意識は共有しているのですが、しかし彼もまた「脱目的を目的として」本を書いたり、講話をしているのです。哲学も演劇も、同じような難題に立ち向かっている。)

最後に参加者による振り付けのダンス練習。大した運動量でもないのに終わるころには疲弊(少なくとも私は)。
みんなで一つのまとまりを作ろうと邁進するというのも、また一つの「集中」のあり方でしょうか。
まだ振り付けを覚えるのに必死で、そんなところまでは行けていない感じですが。

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