変化が可視化される

 3/8 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺
稽古場に、初めてゲストが来てくれました。俳優の大石英史さん。
いつもと違うひと、もの、ことが侵入してくると、やはり場が一変します。
まず確固たる場があって、そこにいる人たちが「ひも」や「戯曲」や「考え方」を自由に扱うのではない。
それらはわれわれにとってdisponible(好き勝手利用可能)なのではなく、それらのものたちにふりまわされることで、はじめて遊びは生じる。
大石さんの存在感、はまさにそういう意味での遊びを可能にしてくれたように思います。

様々な意味で、私たちは変化に面白さを見出します。もしかしたら単なる生、は安定を求めているのかもしれない。それでもなにかが変わる瞬間が、変わっていく実感が、生を豊かにすると思えてしまいます。やはり。

とはいえ「変化」、と一口に言ってもなかなか難しい。俳優が舞台上に立ったら、その人が何かを起こすはずだ、何かが起きるはずだ、と期待するでしょう。このとき「10分立ちつくすだけ」というパフォーマンスがなされた場合、それはまた大きな変化、事件になり得ます。
どこにドラマチックな変化の種が落ちているのかはそう簡単にはわからない。やってみないとわからない。やってみてもわからない、かもしれない。いずれにせよ厄介なことに、「変化を起こそう」という意志や意図は、ドラマから遠ざかったりする場合が多い…

演出家の中には演劇を自らの世界を体現するためのメディアだと思っている人が少なからずいて、そういう人たちは多くの場合俳優をdisponibleなものだと考えてしまっています。
世界に遍在する(はずの)変化、それをいかに汲み取り、戯れるか。演劇の肝の一つがここにありそうですが、かなり粘り強い思考や実践が必要で、多くの人は(例えば上述のような演出家は)それに耐えられず楽な手段を選んでしまいがちです。
でもせっかく演劇なのだから、と思わないではいられません。




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