ドラマとしての場

 2/23 13:00-17:00

drama、の語源がギリシャ語のdranであり「行為」を意味する、というのは演劇学をやると基礎として最初に学びますが
そういう意味でのドラマ、は日常のあちこちに散見される。あるいは、そう見ようと思えば全てを「ドラマ」として考えることができる。
日常とは異なる事態に遭遇すると、ドラマはいっそうわかりやすく顕現する。例えば今思い出したのは、大規模停電が起きて電車が止まり、会社に行けないサラリーマンが駅にたくさんたまっていた時。みんな非常事態を告げるために電話をしたり、開き直ってベンチでコーヒーを飲んでいたり。
悲壮な面持ちの人もいたのでアレですが、日常のリズムが崩されるというのはなんとドラマティックか、と思ってしまいました。

私は昔から、坂道を見るとそこについドラマを感じてしまう。
坂道にボールを置くと、勝手に転がっていくことを私たちは知っています。
重力や摩擦力、世界にうごめく無数の力の錯綜は、なんとなく了解されている。
坂道は、モノをつきうごかす力を備えている。そこにドラマ性を見てとることができる。

アグレッシブな子どもは坂道、あるいは身の回りの高低差を上手くつかってさまざまに遊びを開発します。
そこではただ歩く(それ自体にもドラマはある、と私は思っていますが)よりも、分かりやすく緊張感を醸成することができる。
多分そういうことを、無意識のうちに感じているんじゃないかと思います。
……そしておそらく、物理的な高低差だけではなく、観念のレベルの高低差などにもドラマってあるんだろうな、などと思いましたが、思っただけです思いつきです。






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