期待を忌避する肌理と機微

2/8 19:00-21:00 渡辺健一郎

日中はほのかに暖かさを感じるようになりましたが、夜はまだ完全防寒が要りますね。そして今日は少しの雨。

接触、コロナ禍ではもっとも悪とすら言いうるこの行為、しかしそれは演劇の生命線の一つでもあります。
接触、しかしそれは全容を「把握」することが不可能なほどの底なしの広がりを持っています。
我々が壁に触れるとき、何らかの「手触り」を感得するでしょう。
しかし手を広げて手のひらを壁に押し付けるとき、本当は薬指の腹も、親指の付け根も、手首の辺りも、同時に触れているはずです。
そして壁のほうも本当は一様じゃない。削れていたり、出っぱっていたり、様々な部分があるはずです。
本当は一言ではあらわせないこの感覚を、我々は「壁」に「手」で「触れる」と言ってしまうわけです。

フランス語のsensという語は、「意味」とか「感覚」、あるいは「方向」などといった意味を同時に持っています。
接触に際して、我々は無限の感覚に一つの名前をつける。
感覚にある種の方向づけをすることで、意味が生まれてくることになるのです。善かれ悪しかれ。
ただ演劇は、演劇的接触は、日常的なコミュニケーションのなかで期待されている意味=感覚=方向を逸脱させることがある。
そういう時に何か感動してしまうのでしょうか、ね。そういうものを探していたいです、ね。

前半はコンタクト・インプロヴィゼーションのようなことをやりました。
二人組で、背中同士を接触させる。相手の背中を感じながら、互いに身を預けあい、動的接触の中にダンスを見つける。
壁と手を触れ合わせるだけでも本当は無限の意味を持ちうるのだから、これはもう大変です。
それだけに一朝一夕では「うまくいく」感じがありませんが、通るべき道だなとも感じられる。

演劇が、俳優が触れるのは、何ものかに物理的に、というだけではない。
テクストを読む時にも何らかの感触、を覚える。
インタビュイーが「びっくりしちゃった」と発言した、のを採録したテクスト、をどう読めば良いのか。
インタビュアーとの関係はどうであるのか、「びっくりした」当時の感覚のままに言うのか、当時を客観的に振り返って言うのか。
あるいはまた別の次元で言うなら、インタビュイーの存在とは無関係にそのテクストを読むことも可能でしょう。

なんかあれですね、やっぱり演劇って面白いんじゃないだろうかという気がしてきた。



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