見えないものを見る、あるいは
2/15 19:00-21:00 渡辺
、見えているはずのものに光を当てることについて。
最近何週か連続して、目をつぶっていると開けている人との間のコミュニケーション、を取り扱っているわけですが、
改めて目で見(えて(しまって)い)ることの強烈さを確認している感じがあります。
よく西洋近代を視覚中心主義などと言ったりします。それは対象を分析的な眼差しで見る、ことが特権化された世界観を表している。
例えばマーティン・ジェイ『うつむく眼』。
しかし視覚なるものによって。分析などという言葉ではおさまらないほどに、われわれはあまりに多くのものに触れてしまっている。
視覚のおぞましさ。
我々は、対象の「感じ」をおおむね目からつかんでいる。これを言語化しようとしてもなかなか上手くいかない。
見ているのは、おそらく対象そのものだけではなく、その背後に存在する何者か(たち)をも同時に、多くの場合無意識に、把握していることでしょう。
背後から切り離された、「対象そのもの」に触れることはできない、はず。
でもそんな余剰物に日常的に気を配っていたら生活できませんから、基本的にはそれらを捨象して生きていますね。
前回は「視覚に頼ってしまっている」けど他の感覚も〜、という話をしましたが、我々はこれほど信頼を置いている視覚のことについてさえ、おそらく殆ど気を配ることができていない、気がしてきた。あるいは、当たり前すぎて気を配るべきものと認識していない。
なんて鈍感、なんて蒙昧。そんなことで「演技」なんかできるはずもないわ!
が、時に盲目故に光が見えることもある、ということは経験的に知っている、気がする。光の条件は盲目かもしれない。
「安部公房スタジオ」で、安部公房が俳優たちとやっていたとされるワークのことを思い出しました。一人が写真を見て、その画の全体像を言葉だけで説明する、といったようなもの。
田中邦衛が説明が異常に上手かったんだとか。思い出しただけです。
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