【行楽】なんしか、やまのぼり リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 11月 04, 2021 11月3日 10〜16時頃 竜王山→摂津峡2年半前までは関東にいたものですから、関西圏の方の「なんしか」を聞くとなんかどきっとします。この日は2回聞いた。都合のつく希望者で山に登ったことだけご報告。「ハイキング」、の様なキラキライベントじゃないんです、山登りマイスターにコースを選定してもらったらとんでもないことになった。急勾配の途上も撮ればよかった、がそれどころじゃなかった。疲れました、取り急ぎ。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
書くことと語ること 5月 24, 2023 5/21 13:00-19:00 城内公民館 集会室3→高槻城公園芸術文化劇場 中スタジオ3 5/23 19:00-22:00 高槻市生涯学習センター 会議室1 クリエイションも佳境、大詰め、のはずなんですが、いくつかのシーンでテクストが一から作り替えられるなどしています。 『あなたは山になる』のテクストは8割方、参加者によって作られているのですが、日々考えていることも行きつ戻りつ、生活の状況も右往左往しているわれわれですから、言葉の出力のされ方が一分一秒変わっていくのは当然といえば当然、といった具合です。 演出家は「自分から出てきた言葉」を大事にしようとするのですが、この「自分から出てきた」という点が大変厄介で、それを文字に起こすのに技術が要るということもあるのですが、さらにその文字を発話するというのは輪をかけて大変なことだということが改めて感じられました。 確かに自分の体を通じて出力されたテクストだとしても、しかしそれを声に出すということが「自然」にできるかといえば決してそんなことはないわけです。 書く、ということと喋る、ということは、人によっては「全く」質の違う行為であって、書けるけど喋れない、あるいはその逆、といった例は枚挙にいとまがありません(例えば私は「書く」に極めて強い負荷を感じてしまうので、喋るようにして、それを転記するような仕方でしか書けません)。 もちろん、とくに違和感なく書き、同じように喋る、ということができる人もいる様ですが。 色々要因はあると思うのですが、書いたことを喋る場合には、単純に自分と自分の言葉とに大分(時間的)距離がありますので、その辺が最初のつまずきポイントになりそうです。 自分で書いたはずの言葉と自分の声との間に、必然的に生じるズレ、この違和感とどう付き合っていくか。 そもそも「自分の書いた言葉」というのも、100%自分が考えていることそのままかといえばそんな訳ありませんので、例えば「言葉に責任を持たねば」みたいなことを厳密に考え始めると収拾がつかなくなってきます。 いずれにせよ演劇の場合は練習段階で「自分の」言葉を何度も繰り返し言わねばならないわけですから、そんな不自然な状況他にはほとんど存在しないため、どうしたってぎこちなくなります。「自分の言葉なんだから言えるはず」なんていうことはないわけです。 このことが演劇一般の(他... 続きを読む
「ひとのために何かすることで自分が幸せになるんですね」 5月 17, 2023 5/14 13:00-19:00 長岡京中央生涯学習センター 会議室1、3、創作室 5/16 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 ※リンクは全て当稽古場ブログの過去記事 タイトルは、他人に対するハンドマッサージの練習をしていた参加者が、繰り返し大きなあくびをしながら発したフレーズです。手を揉まれる側ではなくて、揉んでる方が大欠伸を繰り返していて笑ってしまいました。 私はどちらかと言うと 「利他」の甘美すぎる響きにはやや懐疑的なタイプ ですが、しかし「何かをしてあげる」ということが気持ち良いというのは確かにあるはずだとも改めて思いました。 ただ、人が喜ぶことを嫌々やる、というのが嬉しいはずもないので、やはり利他と利己が一致する時に快楽が生じるのだなと。 アラン『幸福論』 に「あくびの技術(L'art de bâiller)」の章があります。 「あくびは疲労のしるしではないのだ。あくびはむしろ、おなかに深々と空気を送り込むことによって、注意と論争に専念している精神に暇を出すことである。このような大変革(精神のはたらきをばっさり切ること)によって、自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることには倦き倦きしていることを知らせているのである。」(神谷幹夫訳、岩波文庫、1998) タイトルが「あくびの"技術(=芸術)"」となっているのは面白いことだなと思います。基本的にあくびは意志や意図とは無関係に、勝手に出てしまうものでしょうから。 ただ、もし緊張状態がデフォルトになってしまっていて、それに抗うために気を緩める、一息つく、頭を空っぽにする、みたいなことで「あくびを許す状況をある程度意図的につくる」ことができるならば、それは「あくびの技術」と呼ばれても良いのかもしれない。 また少し違う話になりますが、あくびをわざと出そうとしたりすることもできなくはなさそうです。目を瞑り、耳の後ろあたりに力を入れ、胸呼吸(?少なくとも、腹を膨らませる腹式呼吸ではない)を深くする、肩のあたりを震わせる、みたいなことを同時にやると、あくびができる!もう少し細かくいえば、目を瞑りながら、眼球は少し下を向いているだろうか。 今、何度か試してみていますが、何度でもできますね。「あくびっぽい動き」をしているんじゃなくて、自然と涙も出てきますし、こ... 続きを読む
集中がある、どこかに、とすれば 4月 26, 2023 4/25 19:00-21:30 クロスパル高槻 和室 前回流した瞑想のテキスト、もともとは英語の文章のようで、原文を見せてもらったのですが、これが大変面白かった。 英語というか西洋の文章はたいへん文法にうるさく、主語と動詞(述語)は必要不可欠なんですが、瞑想のテキストには動詞がない文が多い。 例えば 'Finding a position of stability and poise(...).' 。 直訳すれば、「安定と落ち着きのポジション(姿勢、体勢)を探すこと」。 普通だと例えば命令形Findを使ったりすることが考えられる(「ポジションを 探してください 」といったように)のですが、この文章では動名詞Finding(「探す こと 」)があるのみで、動詞がありません。 日本語だと「〜すること。」という文章にそこまで違和感ないかもしれませんが、英語だと結構異様です。 勝手な想像ですが(しかし完全に当て推量というわけでもありませんが)、瞑想というのは自分とその他のものの境界を曖昧にする作業なのであるから、主/述という区分は邪魔になるのではないか。 動名詞で表現するしかないのではないか。 もしかしたらその意味で、主述を結構適当に使(ってしま)える日本語というのは、瞑想に適した言語なのかもしれません。 いずれにしてもしかし、瞑想のテキストを「発話する存在」はどうしたって必要です。ただ「この人が喋っている」という意識が明確になってしまうと、瞑想からは遠ざかることになります。 声は聞こえているし、意味は把握できるけど、「誰」が言ってるとか、聞いてるのは「自分」であるとか、そういう意識から遠ざかること。 そのためには、どの様な文章で、どの様な発話の仕方をすれば良いのか。 おそらく「集中状態」を生み出すための方途を考えなければならない。 寝ようと思いすぎると寝られない、のと同じように「集中しようと思いすぎると集中できない」、集中しようと思わないしかたで集中を目指す? (マニアックな話をすると、最近哲学者の國分功一郎が 『目的への抵抗』 という本を出しました。「目的」ばかりが取り沙汰されるこの時代に、脱目的的な生を考えようとするものです。問題意識は共有しているのですが、しかし彼もまた「脱目的を目的として」本を書いたり、講話をしているのです。哲学も演劇も、同じよ... 続きを読む
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