私がとちった話 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 11月 30, 2021 11/23 19:00- 渡辺健一郎色々な不幸と確認ミスが重なり、稽古場が取れていないことが判明しました。仕方ないので平謝りして、高槻現代劇場近くの私の家に来てもらって、色々話をしたりするなど。弁明の余地はないということは強調した上で、しかしこうやってまったり喋る時間も良いですね、とか思ったりして…みんなの演劇観とか、遍歴とか、演劇における自由の話とか、どういう演劇が好きかとか、じっくりまったりやりました。楽しかったです。いや、あの、本当にすいませんでした。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
強制、共生 4月 12, 2023 4/11 19:00-21:30 ゆう・あいセンター 研修室 前回 終わった後に、アランの『幸福論』をなんの気なしにひっぱりだしたんですが、93の章のタイトルが大変面白かったため( 目次 )、俳優それぞれタイトルが気になった章を指定して、それを読む、ということをやりました。 アランは「オプティミスト(楽観主義)」だと周りから言われているそうです(自分でそう書いている)。かなりの意訳ですが、だいたいのことは気の持ちようだと言っているので、なるほど楽観的だなとも思います。しかし悟りを開け、とも言われているような気にもなるので、決して楽なことを言わんとしているのではないな、とも。 とはいえ、何かオカルティックな意味での悟りではなく、かなり具体的に、物質的な側面からも考えた「悟り的なこと」を書いてくれているので、「幸福」の(文字通り)手がかりにはなるのかもしれない。 現代の演劇では、俳優は必ずしも「役(登場人物)」を演じるわけではありません。アランの文章を読むにしても、それを読む人は必ずしもアラン役を演じなくて良い。 では一体何をしているのか? 何をすれば良いのか? 役を演じるのではないにしても、人前でテクストを読み、発話する場合、何らかの「役割」は担っています。観客以外の相手を想定して「話しかける」にせよ、客にテキストの内容を「届ける」にせよ、空間に言葉を「響かせる」にせよ、言葉を「発する」以上、自分以外の何ものかとは何らかの関係を持たなければなりません。 特に何も考えずただ「読む」というのも一つの考え方だろうとは思いますが、世界との他の関係性の仕方を考えたうえで「ただ読む」に戻ってくる方が、強度は増すだろうなという気がします。 今回は、1人の参加者の大きな課題に解決?革新?の希望が見えて、大変良かった。 きっと、世界との関係の仕方が大きく変わっていくんだろうと思います。感動的でした。 なおブログのタイトルは、また別の参加者に与えられたテクストより。これも大変面白かったのでじっくり考えたい。『幸福論』より、発話するのが大変難しそうでしたが… 続きを読む
書くことと語ること 5月 24, 2023 5/21 13:00-19:00 城内公民館 集会室3→高槻城公園芸術文化劇場 中スタジオ3 5/23 19:00-22:00 高槻市生涯学習センター 会議室1 クリエイションも佳境、大詰め、のはずなんですが、いくつかのシーンでテクストが一から作り替えられるなどしています。 『あなたは山になる』のテクストは8割方、参加者によって作られているのですが、日々考えていることも行きつ戻りつ、生活の状況も右往左往しているわれわれですから、言葉の出力のされ方が一分一秒変わっていくのは当然といえば当然、といった具合です。 演出家は「自分から出てきた言葉」を大事にしようとするのですが、この「自分から出てきた」という点が大変厄介で、それを文字に起こすのに技術が要るということもあるのですが、さらにその文字を発話するというのは輪をかけて大変なことだということが改めて感じられました。 確かに自分の体を通じて出力されたテクストだとしても、しかしそれを声に出すということが「自然」にできるかといえば決してそんなことはないわけです。 書く、ということと喋る、ということは、人によっては「全く」質の違う行為であって、書けるけど喋れない、あるいはその逆、といった例は枚挙にいとまがありません(例えば私は「書く」に極めて強い負荷を感じてしまうので、喋るようにして、それを転記するような仕方でしか書けません)。 もちろん、とくに違和感なく書き、同じように喋る、ということができる人もいる様ですが。 色々要因はあると思うのですが、書いたことを喋る場合には、単純に自分と自分の言葉とに大分(時間的)距離がありますので、その辺が最初のつまずきポイントになりそうです。 自分で書いたはずの言葉と自分の声との間に、必然的に生じるズレ、この違和感とどう付き合っていくか。 そもそも「自分の書いた言葉」というのも、100%自分が考えていることそのままかといえばそんな訳ありませんので、例えば「言葉に責任を持たねば」みたいなことを厳密に考え始めると収拾がつかなくなってきます。 いずれにせよ演劇の場合は練習段階で「自分の」言葉を何度も繰り返し言わねばならないわけですから、そんな不自然な状況他にはほとんど存在しないため、どうしたってぎこちなくなります。「自分の言葉なんだから言えるはず」なんていうことはないわけです。 このことが演劇一般の(他... 続きを読む
death(true)² 1月 19, 2023 1/17(火) 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:O 年が明けて作品のテーマ決めに本腰を入れ始めました。 3年目、ラボ最後の年という事で何か出し物をしてもいいんじゃないかということで先週から読み始めた如月小春『DOLL』。 もちろんこれを下敷きに考えるということで、そのまま上演するという事はありませんが、戯曲を扱わずテキストや対話を上演にすることを主としてきたあした帰ったにとっては不慣れな作業です。古典でもない現代戯曲(とはいっても約40年前)を取り扱う事にどのような意味があるのか。 上演に向けて今まではHOW(どのように)を考えてきましたが、WHAT(何を)を考えるための足掛かりとして投げかけられた『DOLL』。本日の稽古はその話し合いに時間を費やしました。その中で多く話題に上がったのが、現代に通ずる普遍的な”死”。そして”自死”。 メンバーの一人が第一期の頃から反出生主義に興味があると言っていたこともありテーマに挙げたという伊藤さん。それぞれの”死”にまつわる事柄が語られます。 安部元首相。赤木俊夫氏。自殺の模様を配信した少女、中年男性。意図せず死の様を記録に残してしまった登山家。『DOLL』でハーメルンの笛吹きのように女学生らを集め、海に沈んだ少女たち。過労死、戦死、事故死。 以前挙げていたフリーマーケットは横に置いて新たに公演の構想が形作られていきます。みんなこの話題の方が話が弾んで(?)いて、死は遠いようで身近な存在であることを思い出す。私は死とフリーマーケットの境目に遺品・遺産があるような気がしました。この方向で考えてみたいと思っています。 続きを読む
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