偶然、居合わせたものから

 11月9日 19-21時 

最初に私事から書きますと、「演劇教育の時代」という論考で群像の新人評論賞をもらいまして、色んな人に報告するために文章が掲載されている群像12月号を持ち歩いていたのですが、講師の伊藤拓也さんも買ってくれていて、稽古場に同じ雑誌が2冊。

ああ、じゃあこっから「台本」になるものを探して読んでみたら良いじゃない、と雑誌をパラパラめくって、穂村弘の連載(「現代短歌ノート二冊目」#015 突っ込みを入れたくなる歌)がぱっと目についた。それを〈演じて〉みる、といった様なことをしました。
評論やエッセーを発話するとき、俳優は一体何を考えるのか。なるほど学校の国語の授業ではそういう「音読」を結構やった気もします。が、その後「演じる」対象として扱うことはあんまりなかったかも、そういえば。

語りかけるような語調で書かれた箇所は、やれる。が、論文調の固めの文体が織り交ぜられると、困惑してしまう(とりわけ穂村弘が、文体を自由に行ったり来たりする軽やかな文章を書くものだから!)。
一つ、「(芸人の)ラジオDJ風に」という制約をつけたら、だいぶやりやすくなったし、面白くなった。
エッセーの著者よりも、ラジオDJの方が、語りかける相手のイメージがある程度明確だからか?など。

今回行ったワークの内容それ自体、も面白いのですが、それ以上に、遊び方を発見し、洗練させていく仕方に私は惹かれています。
伊藤拓也さんは、いかに(演劇的に)遊ぶかを探し出すのが極めて上手い。嗅覚が鋭い。たまたま居合わせた状況の中にどんな面白いことを発見するか。演劇の勘所の一つだと思います。

いずれにせよ上述のワークは、内容としては全体の1/3程度で、後は目を開けている人とつぶっている人とのペアになり部屋の中を歩き回って踊るとか、過去に従事したことのある仕事の再現遊び(写真は「靴屋」)とか。楽しかった。



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