創作の手がかり足がかり、あるいは利他について

 12/20 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺健一郎




参加者でも知っている人は少ないのですが、一応この集団「あした帰った」は「アクターズラボ」の「公演クラス」に位置付けられています(今は動いていませんが、上演作品の完成を目指さず、俳優訓練だけをする「スキルアップクラス」というのが過去にあったのです。一応。公式HPでその痕跡を見ることができます)。
上演なんて目指さず、演劇的な遊びをひたすら繰り返したい、という欲望もなくはないのですが、しかし多少頑張って公演をやり遂げる、というのも確かに価値のあることだと感じられる。

第二期は(私は直接は知りませんがどうやら第一期も)、実際の上演作品の創作に入るのが遅く、俳優にかなり負担がかかっていたので、集大成の第三期はなるべく早めの第一歩を。という意識を持ちたい。
本を書くときでも何でもそうですが、頭の中であれこれ構想したり妄想を膨らませていく作業は楽しいんですが、書き出してみると全く違ったように動き始めたりする。それから初めて考えなきゃいけないことが、改めて無限に出てくる。そのため、最初の一行をまず書いてみる、ということが本当に重要です。

というわけで公演を目指すため、一歩踏み出すため、の足がかりになるように、どういう上演に興味があるか、あるいはそもそもどういう関心があるのか、といったことを参加者全員にプレゼン?してもらいました。




内容を詳述することはできませんが、これまで演出家がこだわってきた「バザー」というお題に絡めて色々考えてきた人、今自分が直面している問題を発表した人、など様々いました。
ただ、やや私の関心事に引き付けて考えてしまいますが、ある程度通底していたのは(日々、演出家や私がやや強調しがちだったからだとも思いますが)前にも言及した、「利他」の問題系。
他人のために何かを。できるのか。できるとすれば。どの様なことが。??

利他という言葉は美しく響きますので、積極的に語りたがる人が増えてきた、という印象があります。
ところが「積極的に語ろうとするとき失われる」のが「利他」でしょう。
極端な話、「私は利他的です」と自負する人が利他的なはずもない。「利他的でありたいです」というのも同様だと思います。
手中におさめようとする度に手元から離れていくのが「利他」なのです。
現代の利他論者?の代表格の一人、中島岳志の本のタイトルも『思いがけず利他』。ふとした瞬間にやってくるのが利他であり、意図的に可能なものではないという。

ちなみに私の『自由が上演される』も、教育というある種の「利他的」営みの複雑さに取り組んだ著作です。
厄介なことに「教育」は、煎じ詰めれば「利他」を「意図」せざるを得ないという絶望的な矛盾とともにあると言える。とりわけ第二章などで書いています。

「他人の悩みを解決しようとするのは傲慢ではないか」という意見も出ました。
私もまさにこういう問題設定でものを考え始めたので、大いに共感したのですが、例えばたまたま同日に発売されていた『親切の人類史』という本では、どうやら利他的であること(あろうとすること?)が人類の本性だ、といった様なことが書かれているようです。
この論調に素直に乗っかるつもりはありませんが、「ついお節介を焼いてしまう」とか「反射的に手を差し伸べてしまう」みたいなことはあるよな、とは思っています。
それが「本当に」相手のためになっているかどうかは分からないにせよ、

差し伸べた手が相手を傷つけるかもしれない、と思うと身動きが取れなくなる(私も結構そのタイプ)のですが、それでもなお自分に可能なことは何か。と問わないわけにもいかない。この様に問うこと自体が、かなりキツく苦しいことでもありながら、ひとまずは私の生きる希望? モチベーション? になっていると言えなくもない。

これもまた同日に発売されていた矢野利裕『学校するからだ』を今日たまたま読んでいました。今回の話に通ずるところがありましたので、「教壇は舞台である」という節から少しだけ引用します。同調するかはさておき、色々考える手がかりにはなるかもしれません。

 「自由に発言していいよ」などと中途半端に開かれているときにこそ、おうおうにして、声が大きい生徒や表面的に社交的な生徒ばかりがのさばる。反対に、コミュニケーションが苦手な生徒や吃音傾向の生徒などが隅に追いやられる。中途半端な「自由」な空間ほど実質的な「自由」からほど遠い、という危うさがある。 
 僕が芸人のような教員を夢想するとき、そこで思い描くのは、コミュニケーションを円滑にまわすMCの姿とは少し異なる。もちろん、そういう資質も必要なのかもしれないが、個人的により追求したいのは、受け手が否応なしに巻き込まれてしまうような圧倒的パフォーマンスのほうである。 
 チャイムが鳴ったら、ふいにあらわれ、1時間で空気をがらりと変えて、そのまま帰っていくような。 その意味では、すぐれたミュージシャンのありかたにも通ずるのかもしれない。いずれにせよ、教員としての自分が考えることは、生徒がこれまで触れたことがないようなワンダーを与えたい、ということだ。(p.63)

いやはや、演劇が「利他」とどの様に関係できるのでしょうか。上演はまさに「意図」して行われるわけですから。「演劇」と「利他」を主題とするとき、そのままいくと傲慢な、暑苦しい、ひとりよがりな、勘違い上演になること請け合いです。
無論、そうでない仕方で演劇と利他を考えることを目指したい。利他を一旦頭から外して、目の前の諸問題に、徹底的に、具体的に取り組もう(例えば「痴呆の親がネット通販で爆買いしてしまう問題を切実に考える」などといった仕方で!)とすることが、翻って利他的になるかもしれない。

こんなことが足がかりになるのだろうか、本当に。ううむ。

年内最後の稽古でした。お疲れ様でした。ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

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