恐らく表現一般について

 1/31 19:00-21:30 城内公民館多目的室 担当:渡辺健一郎

「現代は距離がバグってる。あらゆる人が遠いしあらゆる人が近い」と、私の塾講師時代の教え子が言いました。

今までは表にでてこなかった問題が、SNS等によって比較的容易に可視化される様になりました。遠くて見えなかった問題が、手元に感じられる様になりました。一人ではどうしようもなかった問題を、多くの人で共有して解決に向かうことができるようになりました。
ところが一足飛びに距離が越えられるようになったのと同時に、いろんな問題の重さもまた分かりづらくなってきた様に感じられます。足元の大きな沼に気づかず、遠くの水たまりにばかり注意が呼びかけられる、みたいな事態も散見されます。

「多くの人が共有して」? われわれは一体何を共有しているのだろうか。

前にも書いたことがある(「親密さ」)のですが、演劇は、表現のために適切な距離をはかるのみならず、距離それ自体を表現している様なところがあるんじゃないかと思っています。
距離を失った時代に、演劇によって適切な距離を取り戻そう!みたいな素朴な話をしたい訳じゃありません。ただ、何ものかが生きていく上で、「距離」が問題にならなかったことはないはずです。獲物や外敵までの距離がどれくらいか、みたいなことも含めて。
インターネットの発達は、いろんな距離を越える営みを可能にしました。しかしそれは距離を考えなくて良いということでは決してない。











ここ数週、自/死をめぐって、それをテーマにするのかしないのか、するならどういう仕方でか、といった様なことを話し合っているのですが
ああなるほど、こういう「断絶」も存在するのかと思ったのは(全員のいない、稽古後の雑談のなかで生じた話で恐縮ですが)、
「死は難しいんで生(きる)にしませんか」という提案を私ともう一人の俳優がしたのですが、演出家から「生きるだとポジティブなイメージが強すぎるから」と難色を示された、ということです。
私は生きる(という語)をそんなにポジティブには捉えておらず、すくなくともアンビヴァレントであり、それゆえに強く考えるべき事柄としているのですが、「生命の活力」みたいなイメージでばかり捉える人も多いようです。なるほど。










完全に私の話で恐縮ですが、そういえば高校3年の時の舞台系発表会(卒業制作みたいなもの)で、谷川俊太郎の「生きる」に抵抗するパフォーマンスをしたのでした。
「生きているということ」について、「木もれ日が眩しいということ」、「かくされた悪を注意深くこばむこと」、「人は愛するということ」といったポジティブな仕方で書かれた詩にどうにも納得がいかなかったのを覚えています。

そういえば谷川俊太郎はこの詩で「生きる」をタイトルとしながら、「(いま)生きているということを」のみを書いている。
生きる、という語が表すのは果たして現在のことばかりだろうか。この辺に思考のきっかけがあるかもしれない云々、と考えています。

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