善意は(いかにして)可能か

 11/15 19:00-21:30 城内公民館 多目的室 担当:渡辺健一郎

現代に可能な「善」とは何かと、日々考えています。←はとりわけ私の話ですが、おそらくみんなそれぞれに、多かれ少なかれ考えていることでしょう。

ケアとか利他とか、他者への善、を説く言葉が様々に飛び交っていますが、そのこと自体が他者を配慮せねばという強迫観念を生んだり、独断的な善を根拠にした猪突猛進が別の誰かを傷つけたり、といったことも散見されます。
(とはいえ『「利他」とは何か』などはそういうことも踏まえた大変良い本)


優しく背中を撫でることも、強く背中を押すことも、ただ背中を見ることも、それらが絶対的に善だ悪だと決めることはできません。言ってしまえばその時々で善にも悪にもなりうるでしょう。
じゃあ何でも良いのだと開き直るのではなく、どんな活動にも質的な差はないのだと投げやりになるのでもなく、それでもなお可能な善とは、と問い続けることしかできない。演劇活動は、このように問い続けることとともにあるべきで、そうでなければ(いったん)辞めてしまった方が良いのでは、くらいには思っています。


演出家主導で、バザー×演劇、について色々思案しているわけですが、これもまた利他や善を考えるための一つの方法でしょう(演出家は「贈与」という言葉を使いましたが、ほとんど同じ意味ととらえて良いでしょう。『世界は贈与でできている』も結構良い本でした)。

お金を取るより取らない方が利他的か、というと必ずしもそうでもないでしょうが、しかしお金儲けが目的ならば利他的とは言えないでしょう。
というか、何かを「目的」とする場合、行為には必ず利他と相反する何事かが含まれてしまう。
(カントの「目的の王国」が〜云々などと書こうとしましたが流石に自重しました)
今のところ私は、「利他的な行為が存在する」のではなく、「熱中していたらその活動がたまたま利他的になった」くらいのことしかないだろうな、とは思っています。
俳優もあるいは観客も、熱中できる何事か、がバザーで可能になれば良いなとは思います。ただそもそもバザーにそんなに興味ない人もいるので、熱中できるモチーフかどうかはイマイチどうだろう、とも思っています。まあ、まだ分からない。


完全に私個人の話ですが、もう善とか分からないし考えても仕方ないのでは? どんな活動もあんまり意味ないのでは? 感があったのですが(振り返ってみるとそうだったなと思えるのですが)疲れは溜まっていたなということだけ、一つの言い訳として置いておきます。
ケアや利他が可能になる条件の一つに、自分が疲れていないこと、心身に余裕があること、というのはある、と思う。本屋で働いていたときはやさぐれていて余裕がなかったな、あのときの自分は苦手だな、などとも思い返している。
余裕がなくなっているのは自分の俳優活動のせい、が60%くらいあるので本末転倒かもしれない。職権濫用で宣伝だけすいません↓
11/27 16時〜 ロームシアター京都ノースホール

コメント

このブログの人気の投稿

書くことと語ること

「ひとのために何かすることで自分が幸せになるんですね」

あした帰った第二期スタート、あるいは複数、の俳優、について