場に生じたこと[を/で]

 10/11 19:00-21:30 城内公民館 集会室3 担当:渡辺

今回は盛り沢山で何を書こうかちょっと困った。困っている。
ちょっと気取った話からしますと、私の好きなフランス語の熟語に「avoir lieu」というのがあります。
avoirが、英語でいうhaveみたいな多義語。基本的には「持つ」の意。lieuが「場所」。
「avoir lieu=場を持つ」で事件とか出来事とかが「起こる、起きる」という意味になります。

何かが生じるときには、必ず「場」が必要になる。そして場所が変われば生じることも変わるはずです。
当たり前のことと思われるかもしれませんが、演劇にとっては極めて重要なことです。
「同じ」演劇公演を大阪と東京で行おうとしても、絶対「同じ」にはならない。
場所が違うなら当然内容も変わってくる。
客席までの距離が1m違えば、伝わり方は大きく変わるはずなのです。恐らくはほとんど、無視されていることでしょうが。

そして「劇場」が同じなら「場所」も同じかと言えばそれも違う。
同じ劇場の中でも、夏と冬ではまるで違う場になっているでしょうし、厳密に言えば昨日と今日とでも違うはず。
じゃあ「場」って一体なんなんだ、と言いたくなるところですが、それを知るために演劇をやっているとすら言えるかもしれない(半分は気取って言ってますが、半分は本気です)。


演劇の作り方にも色々あります。まず上演する戯曲を選んでしまってから、それに沿って俳優をキャスティングしたり。
「当て書き」と言って、個々の俳優のパーソナリティに即した登場人物を中心にして戯曲を書いていったり。
あるいはまぁ、「演出家のイメージ・考え」みたいなものありきで、そこに俳優を従属させたり。


「あした帰った」は、なるべくその場に生じたことを出発点にしようとしています。
それは必ずしも、集まった人たちの趣味・嗜好といったことに限定されません。
集まった人たちの中で、生じてしまった面白いことなどを起点に稽古を進めていく。

最初に準備運動もしますが、毎回決まった体操をするわけではなく、
それぞれに動かしたい身体の部位を動かす。それを他の人にもやってもらう。
みんなが下半身を動かす運動ばかりを指定したら、上半身の準備体操は全くできないかもしれないけど、それはそれで。


今回は見学者が二人いました。ただし「場」を取り扱う場合、見学者も場の一部を構成してしまうので、それに影響されないわけにはいかない。
分かりやすく「普段」と違う要因があると、内容も大きく様変わりする感じがあります。
ボール回しのコミュニケーションゲームとか、声を扱うワーク(写真は「猫」の声を演じるもの)、あるいは暗闇の中で相手の背中を求めるワークなどが行われました。
内容は詳述しないので写真で察してください。


↑は、竹内敏晴の有名な声を投げかけるワークです。鷲田清一の『「聴く」ことの力』でも紹介されていたような気がする。
後ろを向いている人に声を投げかけて、誰への呼びかけなのかを当ててもらうもの。
声を投げる方にも受け取る方にも集中力が必要とされます。
これはまさに、繊細な「場」、1mあるいは10cmへの感性を養うようなものだと言えるかもしれません。極めて微妙な声の方向を、表現し、受け取らねばならない。
そしてそれは確かに伝わりうる。確かに伝わりうる。
最初の場の話は、観念的に聞こえたかもしれませんが極めて具体的なものです。


最後に、メンバーの多くが体験した、KYOTO EXPERIMENTのサマラ・ハーシュ『わたしたちの身体が知っていること』("Body of knowledge")についての話をしました。
俳優として参加している10代の子供たちから、観客に渡されたスマートフォンに電話がかかってきて、様々に会話をするという「上演」。
現代の演劇は、〈舞台上〉と〈観客〉との距離を様々に変えようとすることがあります。
通信技術の発達した現代では、これまでのようないわゆる普通の演劇とは異なる距離のあり方が上演の「場」となっている、と言えるのかもしれない。

など。

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