もはや迷えぬ大人たち

9/13 19:00-21:00 城内公民館多目的室  担当:渡辺

古川友紀さん、講師として3回目の登場。
過去2回は「あるく」ということ、あるいはその記述が主題になっていましたが、今回はおそらく「迷子」が主題です。

前半、「子供の頃の怖かった記憶を話しながらストレッチ」「身体のいろんなところから声を出す」「声のオーケストラ」「4分間ジャンプし続ける」など、様々にやりました。
特に声に関する二つのワークは大変良かった。
合唱などをするときにはよく、頭の、脳天から声を出すイメージで!と言われます。そんなことはもちろん不可能なのですが、それをイメージすると確かに音色が変わる。
それの応用編?で、目から、膝の裏から、肝臓から音を出そうとすると、それにともなって身体の使い方が変わり、音色ももちろん変わる。
我々は合理的に発話、発音しているのではない。「言い方」(演技の仕方)を変えるためには、身体を、身体のイメージを、変えていく必要がある。そんなことを思っていました。

それから後半。

古川さんの、大人になると「迷子」ってなかなかなれない、というのは、かなり噛みごたえのある発言でした。
スマホを持たずに知らない土地に行ってみても、海や山の位置関係から自分のいる位置が大まかにでも把握できてしまう。
子供の頃、なるほどそういえば、「迷子」になると世界の終わりかと思うほどに恐ろしく、泣き叫んだ記憶があります。
20分間の即興をしました。特にストーリーを作っていくわけでもなく、ルールを設定するでもなく、みんなで迷子になるように、手探りで感触をつかんでいくといった様な。

複数人で一緒に即興すると、タイプの違いが如実にあらわれて大変面白い。
環境(他の人の動きや、なんとなくの空気など)に反応してそれにあわせていく人や
既存の環境を壊していくべく色々新たな要素を追加していく人、
どうふるまって良いのか分からず機会をうかがっている人、
自分のやることをある程度事前に定めて、それを貫こうとする人、など。
それら全てが「環境」になっている。

すぐ亡きものにされる流れや、みんなに積極的に採用されてメインストリームになっていく流れ、といった違いもありました。特定のリズムや形など、なんらかの模倣しやすいものはメインストリームになりやすい、というような印象もありましたが、本当にそうかはもう少し検証が必要そうです。

迷子というには、みんな結構足取りがしっかりしているようにも感じられました。
とはいえ、時々道を見失う瞬間もあった。その時の反応も個々人で違ったような印象。
誰かに助けを求めるとか、もがく人がいたりとか、「そりゃ迷うこともあるでしょ」と余裕の表情をしていたりとか。

以下、即興中の写真、即興の流れを後から思い起こしているときの写真のみ載せます。
「今の20分間に何があったのか」を後から記述する際、なんとなく自分の身体の動きで覚えているとか、相手の動きに反応して自分はこう動いたなとか、
共同的な記憶の呼び起こしみたいなことが生じていました。










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