わかってきてしまったのか

 7/12 19:00-21:00 高槻現代劇場205 担当:渡辺健一郎

分けたい欲求にはどうしても駆られます。分割、分類、分担、分業、分配、云々。
分けた方が効率が良かったり、心地良かったりする。

「分かる」=「分ける」だとはよく言われることですが、われわれは何かを認識するとき、必ず何らかを「分けて」います。
目に入った全てのものを認識していては、頭が疲れてしまいます。通常ひとは、生活に必要なことや印象的なことだけを切り分けて感得している。
自宅から駅までの道のり、何が、どのようにあるのか逐一思い出せるでしょうか。
マンホールがいくつあるのか、隣のマンションの屋根が何色か、道中の空の方角はどちらを向いているのか?

フランスでは蛾と蝶をいずれもpapillon(パピヨン)と呼び、区別がない。
細かく名前をつけていくことで、われわれはどんどん細かい認識ができるようになる。例えば「生物多様性」を理解するために、生物学では18世紀に「分類学」という考え方が確立されました。
生物をよりよく理解するためには、分類をどんどん細かくしていくのが正当なやり方だ、ということです。
(その結果、「トゲアリトゲナシトゲトゲ」という生物分類ができたというのは何かおかしみを覚えます)

ところが、分けることで鈍感になる、ということもある。男/女の区別などが最たるものの一つでしょう。
一度分けてしまうと、その区分を無視して考えることは難しくなります。
ガとチョウで、どうしてもガの方を「嫌なもの」と認識してしまうわけです。

分けること、分かることは、日常生活を楽にするためにはおそらく必要なことです。
しかしそれによって余計に分かりづらくなっていることもたくさんある。
複雑な世界を、切り分け、誰の目にも見分けられるようにし、それをもって「正しい」認識とすることに抗いたいという気持ちがある。

…と思っていたのですが。
「過去に観た芝居の中で最も印象的だったものを2分間で語る」というときに、パッと思い浮かべた2作品がいずれも学生時代に観たものだということに気づいて、少し暗い気持ちになりました。
印象的だというのは、恐らく(あくまで恐らく、ですが)「それまでは分かっていなかったけど、"何か"が輝いて感じられた」といったことなのだと思います。
多くの作品を観ると、「この作品はあの作品と似ているな」「このパターンね」などと、過去に「分かった」ものとの比較で接するようになるのかもしれない。
「きっとこういう話だろう」と思っていたものが裏切られたときにも、「王道」から区別された「どんでん返しの作品」などと分けたりするでしょう。

実際にそこでどういう出来事に立ち会ったのかよりも、分け、分かることの方が重要になってしまうことがある…のかもしれない。
何かがわかったつもりなってしまっている私に、これから印象的な作品はおとずれないかもしれない。
そう思ってなんともいたたまれなくなりました。ワークの趣旨とはまるで違う話なんですがね!
(趣旨、主旨、しかし演劇にそんなものがあるのだろうか。みんながそれぞれに色々思えば良いのではないか。とも思います)

分かる/分からないで長く書きすぎた。自分にとっては、印象的だったのですね。
他に、一編の詩から上演作品つくったりしました。
しかし創作も、分かるところから出発して、分かるを積み上げていくだけよりは、
分からないけどとりあえず手足を動かして、の方が良かったりする。
「なぜだか分からないけどこうすると面白い」という表現に身を委ねる勇気、みたいなものも必要だろうな、という感じがしました。






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