場所と象徴

4/29 13:00-17:00 福寿舎 蔵
5/3 13:00-17:00 クロスパル高槻 和室

演劇を哲学的に考えようとした(そして哲学とは演劇的なものであるとした)、日本で最後の人と言って良い、中村雄二郎が、
世界のありようを「コスモロジー」「シンボリズム」「パフォーマンス」で説明しようとしていました。そしてこれはまさに演劇を成立せしめているのと同じ構造なのだと。
詳しくは『魔女ランダ考』を読んでいただければと思いますが、学生の頃、随分単純に言ってくれるなぁ!などと若干の反発をもって、しかし興味深く読んでいました。
今ならもう少しわかるな、という気がします。とりわけシンボリズム(象徴性)について。
わかりやすく言えば、例えば寺社仏閣にわれわれは何らかの荘厳さ=象徴を感じてしまう、といった話です。

象徴という語を、当時はやや胡散臭く感じていました。
ただ、場所の喚起する象徴性は、確かにある。
例えば寺山修司劇場があって劇が演じられるのではない。劇が演じられると、劇場になるのである。」ーー昔はこれを字義通り?というか浅薄に理解して、
「どこでやっても質的な違いはないのだ、劇場は要らないのだ」などと思っていました。
そのため、場所が特権的な意味や価値を持つとする「シンボリズム」の思想に違和感があったのでした。
(寺社仏閣にも全く面白さを感じていませんでした)

ただ、寺山も「どこでやっても一緒」などということを考えていたはずはない。
彼の文章を全て検討したわけでありませんが、劇場化可能な場所の条件を考えていたはずです。あるいはまた、劇場の可能性を見出したら、その場所に価値や意味を見出す作業に相当の労力をかけていたはずです。

象徴は、「すでに」「そこかしこに」「ある」ものではない。
文明は川沿いから発展するといった様に、ある程度の自然の条件はあれど、
そこに人間(あるいは人間以外の生き物たち)が少しずつ見出し、作り上げていった象徴なるものがあるのだと思います。
そして演劇は、この突発的に象徴性を作り出すことのできる営みだろうな、などと思いました。
あるいは、忘れられていた象徴性を掘り起こすもの、だったりもするかもしれません。

情報量や娯楽は多いのに、なんか弊版で退屈だ、と感じられる街に、
一つの象徴性の杭を打つことで、そこを中心として街が別様に色づく、という経験があるはずです。
象徴が失われている現代だからこそ、と、今になってそういう想いをするようになりました。










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