嗚呼心許なき俳優、あるいは不特定の「あなた」

4/17 13:00-17:00 蔵
4/19 19:00-21:00 蔵

演劇に、俳優に、何ができるのか、何を言いうるのか、考える日々が続いております。
4/19、BEBERICA theater company 弓井茉那さんがワークショップ講師として来てくれました。
音をめぐる、触覚をめぐるワーク。
われわれがいかに、日常的に感覚しているはずのことどもを無視しながら生きているのか、ということがかなりありありと分かりました。
「音で触る、と意識してほしい」という指示があったのですが、やってみるとなるほどよくわかる。
(単純に空気の振動が起きているという意味で、実際に物理的な「触れ」感もあるのでしょうが)
音は決して「対象」としてのみ存在するのではない。私との接触によって初めて音は音として存在しうる。

私にとって最も印象的だったのは、弓井さんが目を瞑った客と一対一で接する芝居に俳優として参加したときに
「心許ない存在」としてそこにいた、と言っていたことです。
確固たる拠り所があるわけではない、なんとなく落ち着かない、しかしたしかにそこにいる、そういう存在としての俳優。
私も昔から、「舞台に立つこと」「演じること」にいささか居心地の悪さを感じていました。
だってこんな不自然なことがあるだろうか。
この不自然さこそ演劇の肝であり妙であるということが、ようやくわかってきた。

そういえば17日には谷川俊太郎の『あなた』を少し読みましたが、これが私には相当辛かった。
「あなた」という呼びかけを、俳優がすることの異常さがある。
「あなた」、と呼びかける場合にはどうしても「わたし」が前提とされるだろう、しかし俳優は「わたし」がそもそもよく分からない存在だから、どの様に「あなた」などと言えるのだろうか。かなりの気持ち悪さがあった。

ただわたしを前提しない呼びかけ、あなたも特定しないような「あなた」という発話があるのかもしれない。
そういえば伊藤潤一郎という人が「不定の二人称」というテーマで本を出していました
彼は雑誌・群像で「誰でもよいあなたへ」「連載・投壜通信「あなた」を待ちながら」といった文章も書いていました。

投壜通信というのは、誰かに届けと願って手紙を壜に入れて、届くか届かないかは分からない、届いたとしても誰に届くかはもちろん分からない、偶然の波にすべてを任せる発話の仕方。
不定の二人称というのは、「あなた」と言葉を投げるけれども、しかし特定の誰かではなく、届いてしまった先の誰かとしてのあなた、みたいな意味合いのもの。

届かないかもしれない、しかし言わないではいられない、今受け止めてくれる人がいるかは分からないけど、それでも100年後に誰かが読んでくれるかもしれない。
そんな仕方での「あなた」の呼びかけが、演劇に可能か、どうか。







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