稽古の思想

 12月7日 19:00-21:00  担当:渡辺健一郎

表現に正解はないと一般的に言われますが、今回は「正解」が目の前に存在するワークを行いました。

2人組になって、「コロナ禍に関連して嫌だと感じた/感じていること」を互いにインタビューし合う。
その後、相手のインタビュー内容をトレースして発表するというもの。私も参加しました。
相手の話した〈内容〉はもちろん、声色、口癖、手/足やその他身体の機微など、意識しなければならないことは無数にあるので、極めて難しい。

厄介なのは、実際のモデルを直前に目にしているので、表現すべき「正解」が確かに存在しているということです。

練習の時間などとらず、ほぼ即興で演じなければならないので、どうしても完璧には再現できない…というよりも、本当に下手になってしまう。演じながらなんて自分は下手なんだと思ってしまう。私などは特に。

『ハムレット』のマクベスを演じてください、というオーダーだったらある程度好き勝手やれますが、今回はそういうわけにもいかない。

講師の伊藤さんは、細かいところよりも、大掴みで雰囲気を再現して欲しい様子でしたが、「正解」という縛りのために、少なくとも私の心はかなり縮こまっていました。


このワークはしかし、演技の本質の一つにアプローチしているものだとも思います。

戯曲の上に表現されている「マクベス」であっても、情報量が少ないだけで、戯曲という体裁をとって一つの「正解」を示している。

そして俳優は様々な仕方で、ありうべき正解に向かっていくわけです(ゆえに、先ほど書いた「ある程度好き勝手にやれる」というのは、正解を無視した、怠慢だと言えるかもしれません)。


日本の演劇史の文脈で言うと、この「正解」は「型」と呼ばれています。世阿弥の時代から。

型をとにかく反復して身につけていくこと。それこそが古(いにしえ)を稽(かんが)える「稽古」なのであると。

では、最終的にはみんな同じ演技をするようになるのが理想かといえば、そうではない。

型を究極まで習得すると、どこかでその型から遊離する瞬間が訪れる、その人にしかできない表現がうまれてくるーーと世阿弥は言っています、し、感覚的には分かることです。


西洋哲学の歴史の中でも、この「型」の問題を扱った人がいました。

最後に、それについての論文をみんなで少しだけ読んで、お開きとなりました。

pdfページを置いておくので、参考にしてみてください。

https://ouj.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=7548&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17


…いずれにしても、型の習得のためには相当な「反復」が必要になる。世阿弥の場合にも、ディドロの場合にも。

こういうワークをやるなら即興じゃなくてみっちり練習させてくれ!!!!という気持ちにはなります。俳優としては。

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