稽古の思想
厄介なのは、実際のモデルを直前に目にしているので、表現すべき「正解」が確かに存在しているということです。
練習の時間などとらず、ほぼ即興で演じなければならないので、どうしても完璧には再現できない…というよりも、本当に下手になってしまう。演じながらなんて自分は下手なんだと思ってしまう。私などは特に。
『ハムレット』のマクベスを演じてください、というオーダーだったらある程度好き勝手やれますが、今回はそういうわけにもいかない。
講師の伊藤さんは、細かいところよりも、大掴みで雰囲気を再現して欲しい様子でしたが、「正解」という縛りのために、少なくとも私の心はかなり縮こまっていました。
このワークはしかし、演技の本質の一つにアプローチしているものだとも思います。
戯曲の上に表現されている「マクベス」であっても、情報量が少ないだけで、戯曲という体裁をとって一つの「正解」を示している。
そして俳優は様々な仕方で、ありうべき正解に向かっていくわけです(ゆえに、先ほど書いた「ある程度好き勝手にやれる」というのは、正解を無視した、怠慢だと言えるかもしれません)。
日本の演劇史の文脈で言うと、この「正解」は「型」と呼ばれています。世阿弥の時代から。
型をとにかく反復して身につけていくこと。それこそが古(いにしえ)を稽(かんが)える「稽古」なのであると。
では、最終的にはみんな同じ演技をするようになるのが理想かといえば、そうではない。
型を究極まで習得すると、どこかでその型から遊離する瞬間が訪れる、その人にしかできない表現がうまれてくるーーと世阿弥は言っています、し、感覚的には分かることです。
西洋哲学の歴史の中でも、この「型」の問題を扱った人がいました。
最後に、それについての論文をみんなで少しだけ読んで、お開きとなりました。
pdfページを置いておくので、参考にしてみてください。
…いずれにしても、型の習得のためには相当な「反復」が必要になる。世阿弥の場合にも、ディドロの場合にも。
こういうワークをやるなら即興じゃなくてみっちり練習させてくれ!!!!という気持ちにはなります。俳優としては。
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