自分から遠いものを演じることについて
演じるときに、「自分からの距離」を測って演技を作っていくタイプの俳優と
「自分」なんか度外視で、役に直接アプローチするタイプの俳優とがいます。
この登場人物は自分とはこう違うな、どういう思いでこんな台詞を言うんだろう、といった仕方で演技を模索するのと、
とにかく台本に書かれていることのみを忠実に演じようとするのと。
さて今回はまず、2人組で向かい合って相手の名前をただ呼び合うだけ、というワークをしました。
1人は「好き」の感情を、もう1人は「嫌い」の感情を乗せて、ただ呼び合う。
演劇の現場ではよく行われるワークですが、発見は多い。
この時、「嫌い」を表出するのが本当に苦手な(出来ればやりたくない)人がいました。
実際の相手の名前を呼び合うから、ということもあるかもしれませんが、相手のことを嫌いじゃないのに、その感情を乗せられない、乗せたくない。先ほどの区分で言うなら、前者のタイプの俳優ですね。
逆に、そういう指示が出ているのだから、怒るのもけなすのも何でもやるよ、という人もいました。後者のタイプです。
この区分と正確に対応はしていない(どういう意味で?検討してみると面白いかもしれない)と思いますが、演技を「没入なりきり型」と「典型表現型」とに区分した論文を、前回から今回にかけてみんなで読んで、検討しました。
(※先週もURL載せましたが、念のためもう一度)
哲学者が演技について論じた数少ない文章として、ディドロの『俳優のパラドクス』は非常に有名です(『逆説・俳優について』という邦訳本がありますが、かなり古い1954年のものしかない!勿論絶版…新訳が待たれます)。
ここで言われている考え方は、自分たち、俳優からするとどう見えるのか。といったことを各々に喋り、吟味しました。
「完全に没入した演技する人なんかおらんやろ」など、一刀両断するコメントなども出てきて、非常に小気味良かった。
また、没入するためには(典)型が必要ではないかといった声も聞かれた。
人間は、まず最初に何らかの気持を持っていて、それを表現しているだけではない。表現にともなって気持が作られるということもやはりある。
ロジカルには何のことやら全く理解できないテクストと格闘している途中に、
講師から「〈そらのしずく〉をミメーシスして!」と冗談めかしてオーダーが飛んできました。
(※ミメーシス:模倣≒演じること。先の論文で…というより演劇論や芸術論で頻出する単語)
模倣不可能なものを模倣させられるという不条理さ!しかし演劇というのは本来的に、自分からあまりに遠いもの、あるいは自分とは異なる世界に存在する何かにアプローチする手段なのかもしれません…何もわかりませんが。
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